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追悼・渋谷陽一 『ROCKIN'ON JAPAN』&『Cut』

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1980年代中頃、雑誌『rockin'on』で日本のアーティストを取り上げた記事が多くなって来たなぁと思っていたら、ついに邦楽専門の雑誌『ROCKIN' ON JAPAN』を『rockin'on』増刊という形で刊行。創刊号は1986年10月号、初代編集長は渋谷陽一。初期〜A4変形版で刊行されていた時期のアーティスト写真は邦楽誌のなかでも群を抜いたクオリティだと思う。 画像の右上は創刊第2号の1987年1月号。表紙は花田裕之(ちょっと分かりにくい?)。カメラマンは鋤田正義。花田のインタビューあり(インタビュアーは広瀬陽一)。ルースターズ『KAMINARI』リリース時期のインタビューだがアルバムに関する話はなく、“ルースターズは僕の敵”というややネガティブな内容。。渋谷陽一は浜田省吾、桑田佳祐、ストリート・スライダーズ、山下達郎、大沢誉志幸と5つのインタビューを受け持つ活躍ぶりだ。 左上は創刊第3号で1987年3月号。表紙は忌野清志郎。渋谷陽一は、清志郎の2万字インタビュー、モッズの森山達也、坂本龍一、デーモン小暮、矢沢永吉とここでも5本のインタビューを担当。清志郎のインタビューは、やはり渋谷陽一じゃないとこうはならないと思う内容で必読(清志郎が亡くなった2009年に刊行されたROCKIN'ON JAPAN特別号『忌野清志郎 1951-2009』に再掲されている)。坂本龍一のインタビューも渋谷ならではの内容。 左下はインターナショナル・インタビュー・マガジン『Cut』の第6号(Rockin'on 1990年11月増刊号)。表紙はジャック・ニコルソン。外国から版権を獲得したインタビューが多く、『ワイルド・アット・ハート』、『ツイン・ピークス』公開時期のデイヴィッド・リンチのインタビューあり。渋谷陽一はイッセー尾形のインタビューを担当、他数本の記事を執筆している。右下は『Cut』1997年5月号。デイヴィッド・リンチ『ロスト・ハイウェイ』の特集あり、このころは渋谷陽一は編集長ではなくインタビュアーの担当も執筆記事もない。雑誌『Cut』は創刊号から毎号購入していたが今はデイヴィッド・リンチ関係と興味のある音楽関係を残して処分してしまった(すまん)。『Cut』は『マルホランド・ドライブ』公開時にデイヴィッド・リンチのインタビュー(インタビ...

追悼・渋谷陽一 21ST CENTURY SCHIZOID MAGAZINE『rockin'on』

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7月14日、音楽評論家・渋谷陽一逝く。74歳だった。 雑誌『rockin'on』を読み始めたのはいつ頃かな…1980年代に入ってからだと思う。1970年代後半にロックを聴き始めた田舎のリスナーにとってアーティスト・バンドの情報源はラジオと雑誌だった(テレビはもちろん論外)。一時期は毎月のように購入していた『rockin'on』だが、だいぶ処分してしまって(すまん)今手元に残っているのは僅か、これだけ。 私の手元にある最も古い『rockin'on』。1978年5月号。これは表紙の写真が気に入ったので古本屋で買ったもの。 1980年3月号。これも表紙の写真がジョー・ストラマーなので古本屋で買った。大友克洋の漫画「大友克洋の栄養満点!」(2ページ)掲載。 1980年7月号。『軋轢』リリース当時のフリクションのインタビュー掲載。インタビュアーは渋谷陽一。“日本のロック…”と言う渋谷に対して、レックが日本のロックなんて雑誌の上にあるだけ。ステージ上や部屋で聴くレコードではなく、生活(日常)にこそロックがある(必要)という趣旨の発言が興味深い。 1980年10月号。表紙はジョー・ストラマー。ピート・タウンゼントのインタビュー、ジョン・ライドンのインタビュー掲載。 1981年8月号。表紙はデボラ・ハリー。坂本龍一のインタビュー掲載。インタビュアーは渋谷陽一。アヴァンギャルドについての対話が面白い。 1981年9月号。エルビス・コステロのインタビュー。ジョー・ストラマーのインタビュー掲載。モノクロ写真ページに石垣の上のザ・ルースターズあり。サザンの桑田のインタビュー(インタビュアーは渋谷陽一)。 1982年4月号。来日したザ・クラッシュのミック・ジョーンズのインタビュー掲載(インタビュアーは渋谷陽一)。当時の新譜『サンディニスタ!』に関することなど。「クラッシュ批判に答えて」という渋谷陽一の記事掲載。クラッシュの政治的メッセージを“音楽と政治は無縁であり音楽には政治的有効性はない”という批判に対して渋谷は”ラブ・ソングに肯定的な連中に聞きたい。歌には恋愛的有効性があるというのか。失恋の歌を百回歌えば以後失恋しなくてすむのか。クラッシュの政治主義に対する批判はせいぜいがその水準でしかない”と断じている。 1982年9月号。表紙はRCのチャボ。忌野清志郎のインタ...

追悼・OZZY OSBOURNE

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オジー・オズボーン逝く。 ついこの間7月5日にはオリジナル・ブラック・サバスのラスト・コンサート『Back To The Beginning』がバーミンガムで開催、オジーはソロで5曲、サバスで4曲を歌っていたとネットで読んでいたので思いがけない訃報だった。 さよならオジー、それでもかつて突然別れた愛しき相棒に再会だね…。 RIP…。

浅川マキ『black』

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1991年、東芝EMI・EASTWORLDよりリリースのアルバム。  浅川マキの『LIVE・夜のカーニバル』と『STRANGER'S TOUCH』に参加し数曲が収録されていた下山淳、池畑潤二、奈良敏博。この『black』は彼らが本格的に参加したスタジオ・アルバム。2枚組CDアルバムの1枚目で全面的に参加している。 下記はDisc 1の演奏者クレジット。 下山淳:Guitar、Piano(4) 奈良敏博:Bass、Rhythm Guitar(3) 池畑潤二:Drums、Percussion 他にBarbara Bayer:Vocal(4)、須田ヒカル:Keyboard(3) 作曲では6曲を担当。 1. 「憂愁 (II)」詩:浅川マキ 曲:下山淳 2. 「憂鬱なひとり歩き」詩:清水俊彦 曲:池畑潤二、奈良敏博、下山淳 3. 「少年 (II)」詩:浅川マキ 曲:奈良敏博、浅川マキ 4. 「FLASHDARK」詩:JOHN SOLT 日本語詩:浅川マキ 曲:下山淳 5. 「今夜は自由に眠らせてくれ」詩:清水俊彦、浅川マキ 曲:下山淳、奈良敏博、池畑潤二 6. 「blackにgood luck」詩:清水俊彦、浅川マキ 曲:奈良敏博、池畑潤二、下山淳 7. 「また、ね」詩・曲:浅川マキ 「憂愁 (II)」は、深海を漂うような浮遊感がある導入部から徐々にスピードアップ、バキッとしたリズム、淡々とだがリズミカルに詩を朗読する浅川マキに対して演奏は熱を帯びてゆく。ネオ・サイケデリック・ミーツ・ドアーズといったシャープな演奏を聴かせる12分の長尺曲で、アルバム『こぼれる黄金の砂』(1987年)に収録されていた「憂愁」とは別物。セカンドラインのリズムを強調・変容したファンキーな「憂鬱なひとり歩き」、セカンドアルバム『II』(1971年)に収録されシングルリリースもされた「少年」の再演ともいえる「少年 (II)」は重厚でブルージーな演奏で、ここではマキの歌はほぼ語りとなって、“少年はわたし わたしは少年〜”以降の歌詩が追加されている。作曲には奈良の名前がクレジットされていてリズムギターも奈良が弾いている。 John Soltの詩を取り上げた「FLASHDARK」は下山淳らしい、空間を作り出すギターフレーズが連続する演奏に、バーバラ・ベイヤーと浅川マキが詩を朗読するミステリアスなムー...

浅川マキ『STRANGER'S TOUCH』

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1989年、東芝EMI・EASTWORLDよりリリースのアルバム。  前作『LIVE・夜のカーニバル』に引き続き、浅川マキ25枚目のこのアルバムにも下山淳、池畑潤二、奈良敏博、野島健太郎が参加、アルバム『アメリカの夜』(1986年)に収録されていたロックンロールナンバー「あいつが一番」と「CHROME STAR」をメドレーで演奏している。 『STRANGER'S TOUCH』について浅川マキ自身は、“このアルバムを聞き終えたとき、ちょうど1本のシネマを観たような印象を受けるのなら、私は嬉しい”と記している通り、原田芳雄が出演した短編映画『男からの声』の音声が挿入されたり、マキの語りあり、モダン・ジャズ、前衛的な演奏、ヘヴィなロック、ポップなアレンジ、と多様な感触の曲が収められ、各曲はトラック分けされているがクロスフェードやコラージュ的にミックスされて繋げられているものもありトータルな印象も感じさせる。 「あいつが一番〜CHROME STAR」は、曲の冒頭に短編映画『男からの声』に使用されていたTristan Honsingerのチェロ演奏や原田芳雄と浅川マキが地下のバーの階段を降りてゆく場面のサウンドが1分ほど挿入され(地下のライヴハウスへ降りてゆくイメージか)、歓声のあと「CHROME STAR」の池畑潤二のダイナマイト・リズムに下山の激しくフィードバックするギターからリフにのせ浅川マキは「あいつが一番」をさわりのみ歌って、すぐにT-REXのカヴァー「CHROME STAR」がメドレーで演奏される。原曲で歌われていた歌詞“Life is just a joke”を“明日の事など いつだって いつだって吹く風まかせね”と、うまく意訳した日本語詩が素晴らしい。ヘヴィーなアレンジで、下山淳の爆音ギターがここでも堪能できる。このアルバムにはレコーディング場所のデータ記載がないのだけれど、このテイクはライヴ録音のようだ(1988年12月の文芸坐のライヴか…?)。

浅川マキ『LIVE・夜のカーニバル』

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1989年、東芝EMI・EASTWORLDよりリリースのライヴ・アルバム。 池袋文芸坐(1988年12月24日) 新宿紀伊國屋ホール(1987年3月7日) 京大西部講堂(日付記載なし) の3会場でおこなわれたライヴからセレクトされている。 1988年12月の文芸坐はオールナイト公演で、 下山淳:Guitar 池畑潤二:Drums 奈良敏博:Bass 野島健太郎:Keyboards の四人が参加した。ルースターズやシナロケ好きにとってはたまらん人選だよね。1988年は、下山にとっては7月にルースターズが解散、泉谷しげる with LOSERのメンバーとして活発に活動、池畑にとっては5月にゼロスペクターから脱退という時期だった。 このライヴ・アルバムはブックレットに収録会場、収録会場の演奏ミュージシャンのクレジットはあるが、曲毎に会場のクレジットは無いので各曲がどこで収録されたのかがはっきりと分からない。浅川マキ自身によるライナーノーツにはこう書かれている。 ”文芸坐から、京大西部講堂、紀伊國屋ホール、そしてまた、文芸坐へと交錯する。  コラージュと云ったら僭越だけれども、そんな感じも取り入れた。  だが実際には欲ばらず、1980年代のライブからスライスした断面とでも云おうか、  大きく二つの場面だけを取り上げ、じっくりと聞いてもらおうと、  そんなアルバムになった” 1曲目に収録されている「KALEIDOSCOPE」は13分に及ぶ長尺のサイケデリック・ナンバーで、下山たちメンバーが浅川マキにより紹介されている。エキゾチックなフレーズを奏でる野島のキーボード、爆音で極彩色に彩られた下山のギターは自由に奔放に空間を飛び跳ね、奈良のベースはスリリングに絡まり、ダイナマイト・ドラムが炸裂する。浅川マキは“気儘に、思いつくことばを遠くへ翔ばした”とブックレットに記している。続く「あんな女ははじめてのブルース」は、歌詞にも登場する“ミシシッピ”デルタ・ブルース・スタイルで、アタックの強いドラムとジョニー・ウィンターばりに弾きまくるギターを聴かせる、やはりこの四人と思われる演奏。 3曲目の「暗い眼をした女優」からは浅川マキが山内テツを呼び入れていることから、 坂田明:A.Sax 向井滋春:Trombone 渋谷毅:Keyboards セシル・モ...