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JEAN-JACQUES BURNEL with LIZARD and ARB

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1978年10月、ジャン=ジャック・バーネルは空手修行のために来日、住む所を探していたところ紹介されてARB(まだシングル「野良犬」でデビューした頃)のドラマー、キースのアパートに泊まることになった。ジャン=ジャックは池袋の極真会館本部へ行き、修行中に負傷、キースが手当するが翌日医者に行くと肋骨が4本折れていたという。 1978年10月27日、六本木S-KENスタジオでリザードとミラーズが「二大怪獣!? 世紀の大激突」と銘打ったライヴをおこなった。この時のリザードのライヴテープを、ジャン=ジャックがキングレコード担当者の紹介でS-KENスタジオを訪れた際に聴いて興味をもち、自ら働きかけて1978年12月に六本木のパブ・カーディナルでモモヨと会見、リザードのアルバムプロデュースを申し出た。 LIZARD『LIVE AT S-KEN STUDIO'78 and more !』(Magnet Records 2002年) 上の画像はジャン=ジャックが聴いてアルバムプロデュースのきっかけになった1978年10月27日、S-KENスタジオでのリザードのライヴを収録したCD『LIVE AT S-KEN STUDIO '78 and more !』。モモヨ所有のTEAC 4チャンネルテープレコーダー(オープンリール)でライン録音された8曲が収録されている(他は1978年〜1979年にS-KEN STUDIOで録音した5曲)。 1979年2月、ストラングラーズ初来日。2月10日にはリザードが出演した新宿ロフトのライヴにヒューとジャン=ジャックが客として訪れている。ストラングラーズが2月15日に京大西部講堂でおこなったライヴにはリザードがフロントアクトとして演奏した。他の会場ではフロントアクトのバンドがサポート料として招聘会社に1ステージ10万円を支払うよう要求されて実現しなかったといわれている。京大西部講堂はモモヨが“商業的保身”から最も縁遠いライヴ会場としてジャン=ジャックに紹介した場所だった。この来日中にジャン=ジャックからリザード側に正式にプロデュースの申し入れがあり準備が進められていった。 リザードのメンバーは渡英費用を自前で用意、自主原盤という形でロンドン録音しキング・レコードからリリースするという契約を結ぶ。1979年7月20日イギリスへ渡りロンドンに到...

『ジャン=ジャック・バーネル自伝(ストラングラー・イン・ザ・ライト)』取材・アンソニー・ボイル、訳・伴野由里子

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2025年7月26日、シンコーミュージック刊。 2022年にオリジナルのフランス語版が出版、2023年にはエリザベス・ケイによって英語版、2025年に伴野由里子により日本語版が出された。編集はジェズ・ドレイクとJ.J.バーネルとクレジットされている。 原題は『JEAN-JACQUES BURNEL STRANGLER IN THE LIGHT CONVERSATIONS WITH ANTHONY BOILE』、題名のあとに“アンソニー・ボイルとの対話”とあるとおり、自伝といってもアンソニー・ボイルによるジャン=ジャックへのインタビュー形式で語られたものだ。コロナ・ウィルスの影響と距離の問題でその対話は2021年2月から翌年3月までZoom上でおこなわれた。冒頭に幼少時やステージ上、オフステージなどの写真を36ページ掲載、本文はテーマ毎に12章に分けて生い立ちや母国(ジャンの両親はフランス・ノルマンディーからの移民でジャンはイギリス生まれ)、影響を受けた音楽、自身の作り出した音楽、バンドメンバー、武道、暴力、神話や三島由紀夫、ドラッグ、セックス、モーターサイクルなどについて語られている。 ジャン=ジャックはバンクが革命だったとし、次第に“パンク革命から弾き出され”、“俺たちは抹消され”、“完全に孤立し”、“「革命」の担い手であることのプレッシャーから解放された”という。しかしそれはストラングラーズが独自路線を歩むことに繋がり良かったと語っている。ジャン=ジャック自身が他のパンクバンドや客やジャーナリストとトラブルを起こしたり、フィンチリーボーイズというストラングラーズ親衛隊がらみの暴力沙汰など武勇伝多し。 原語にもあったんだろうが、気になるのはジャンの発言の後に(ニヤリ)が多用されてることで、これ必要なのかな。まぁともかく口語体で書かれているのでとても読みやすい。ストラングラーズのメンバーのヒューやデイヴ、ジェットとの出会い、その音楽的変遷、ヒューの脱退、デイヴとの別れ、ジェットの引退と、バンドとしての栄枯盛衰、近年のバンドの状態についても語られている。ジャンは知識豊富で、政治的、地政学的な会話、文学、芸術に関する会話はとても面白く読める。 ザ・ストラングラーズの結成は1974年、ヒュー、ジェット、ジャン=ジャックの3人にハンス・ウォームリングというギター/キーボード...

私の放浪音楽史 Vol.18 LIZARD『LIZARD』

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1979年11月ウィンドミル/キングよりリリースのアルバム。 私が日本のパンク/ニュー・ウェイヴで初めて手にしたアルバムは『東京ロッカーズ』と『東京ニュー・ウェイヴ'79』(いずれも1979年リリース)。この2枚のオムニバス・アルバムはどちらもトータルで大好きなアルバムだけれど、以前にとりあげているのでここでは取り上げない。『東京ロッカーズ』に収録されているバンドで単体として追いかけて聴き始めたのはリザードだった。Mr.カイトやミラーズは自主製作のシングルは手に入れられなかったしアルバムが出なかった(リザードのファーストがリリースされる1979年11月には、Mr.カイトもミラーズも解散していた)。フリクションは(恒松のHPを作っておいてなんだが)当時10代半ばの耳には若干敷居が高かった。リザードはアルバム『東京ロッカーズ』に起承転結、オチもあるブラック・ユーモアな「ロボット・ラブ」と、現実への失望と奪われた夢の復活を歌う「レクイエム」の2曲を収録していたが、モモヨのヴォーカルは聴き取り易く、アレンジもポップでどちらも気に入って聴いていた。 地引雄一による工場を写したコントラストの強い無機的なモノクロ(一部の光がイエローに光っている) の写真を使用したリザードのファーストアルバムのジャケットはそれだけでアートだったし(地引の実家に近い京葉コンビナートのチッソ五井工場の夜景が使われた)、帯に書かれたコピー “鋼鉄都市ヲ破壊セヨ” には、それまでの日本のロック/ポップスとは違う、という変革へのアティテュードを感じたものだ。アルバムのプロデュースは空手修行の為に来日していたときにリザードのライブ・テープ(S-Kenスタジオで録音されたもの)を聴いたストラングラーズのジャン=ジャック・バーネルで、ロンドンのエデン・スタジオで1979年7月28日から8月2日にかけてレコーディングされている。 キーボードの薄い靄のなかで始まるアルバムの1曲目「New Kids In The City」はミディアムな落ち着いたトーンのナンバーでパンク・ロック的な激しさは無いが、ジャケットのイメージとあわせて近未来的な印象を受けた。モモヨが常に意識していたアンファンテリブルな目線を持ち、裏通りで遊ぶ新しい子供達の未来に対する変化への呼びかけであり、硬直した大人たちの世界への決別の宣言である。...