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QUEEN「BOHEMIAN RHAPSODY」

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1975年10月発表のアルバム『A Night At The Opera』より。 映画『ボヘミアン・ラプソディ』をレンタルのDVDで鑑賞。ブルーレイは全部貸出中だったよ。 クイーンは私が中学生時代にアルバム『A Night At The Opera(邦題:オペラ座の夜)』を聴いて、やはり「Bohemian Rhapsody」という曲には圧倒された。「Bohemian Rhapsody」のコーラスに続く冒頭の歌詞、  “母さん、今、人を殺してきた  そいつの頭に銃を突きつけ  僕は引き金を引いた” と歌われる、こんな歌がチャートの1位になるなんて凄いことだ。日本じゃ考えられないな…と思った、というか今も思う。 遡って1st『戦慄の王女』〜『シアー・ハート・アタック』を聴いて『華麗なるレース』〜『ザ・ゲーム』、『フラッシュ・ゴードン』までは聴いたかな。ギターキッズ達にはブライアン・メイの暖炉ギターが生み出す暖かで豊かなサウンドが話題だったし、ロジャー・テイラーとジョン・ディーコンのパワフルなリズム隊、重層的なコーラスも魅力だった。華麗なメロディを歌うフレディ・マーキュリーのピチピチのタイツ衣装、マイクスタンドの半分というか先端を使ったパフォーマンスも注目されていた(漫画「マカロニほうれん荘」にも登場してたしね)。 で、映画『ボヘミアン・ラプソディ』だが、クイーンというバンドの歴史を振り返るには、 3時間越えの長さが必要だと思うが、ピークの持っていきかたも含め、2時間ちょっとにうまくまとめてあるなと思う。バンド結成から成功までのスピードが早く、トントン拍子に話が進みすぎる感じがしたり、時系列的にこうだったかな?という箇所があったけど、パッケージとしてみれば良くできていると思う。 サクセス・ストーリー、フレディの抱える孤独、バンドの強い結束力に焦点を絞り、グレイテスト・ヒッツなステージ・シーンやレコーディング・スタジオのシーンを多数盛り込んだ内容は、クイーンを聴いてきた世代のみならず、クイーンを全く知らない世代を含む多くの観客から支持される結果につながったと思う。それにしてもバンドメンバーを演じた役者はよく似てたなー。特にブライアン・メイは立ち姿、弾き方、表情そっくりだった。フレディは長髪の頃がすごく似てた。 「Bohemian Rhapsody」という曲にはフレディが同性

THE STALIN『STALINISM NAKED』

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2019年4月20日、いぬん堂からリリースのアルバム。 1987年1月にIndependent Recordsよりアナログ盤でリリースされた編集盤『STALINISM』。 THE STALINが初期〜解散する直前までにインディからリリースしたソノシート、シングル、オムニバス参加の音源を集めたものだった。 アナログ盤『STALINISM』の内容は、 SIDE A 1. 電動こけし 2. 肉 3. バキューム 4. 解剖室 5. Chicken Farm Chicken SIDE B 1. 豚に真珠 2. サル 3. コルホーズの玉ネギ畑  4. 猟奇ハンター 5. アーチスト A-1.2は、THE STALIN最初の音源で1980年5月ポリティカル・レコードからリリースのソノシート「電動こけし/肉」収録曲、 A-3.4は、1984年11月BQレコードからリリースのアルバム『Fish Inn』の通販特典ソノシート「バキューム/解剖室」収録の2曲、 A-5は、アメリカの雑誌『MAXIMUM ROCK N ROLL』が1984年5月にリリースしたオムニバス『Welcome To 1984』参加曲、 B-1〜5は、1981年4月ポリティカル・レコードからリリースのEP『スターリニズム』収録5曲全曲。 しかし音源は加工されており、「電動こけし/肉」とEP『スターリニズム』収録曲はエフェクト/イコライジングされた音像のものが収録されていた。個人的な想像でしかないが、オリジナルの簡素な録音を多少1987年当時の現代的な音に加工/補正した、ということだったのではないか(ミチロウやバンドがどこまで関与したのか定かではないが…)。 「コルホーズの玉ネギ畑」に顕著だが、オリジナルはよく言えばシンプルでタイト、悪く言えばやや貧弱な音質だったのだが、編集盤『STALINISM』ではエコー感の非常に強い音像になっている。残響が強調され、高音が耳につく。 『STALINISM』は1990年3月にMajor RecordからCD化。2005年にはSS Recordings/スカイステーションから「電動こけし/肉」とEP『スターリニズム』がアナログ盤とCDで再発、24bitデジタル・リマスタリングされたということだが、ソースとしては編集盤『STALINISM』と同じと思われる。2007年にリリースされ

TH eROCKERS『ROCK'N' ROLL』

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2019年4月17日、ポニーキャニオンからリリースのアルバム。 TH eROCKERSのニュー・アルバム! 再結成のライヴ・アルバム『リップ・サーヴィス』が1991年にリリースされているが、TH eROCKERSのスタジオ・アルバムとしては『ハンキー・パンキー』のリリースが1981年だったから、なんと38年振りだ。メンバーはVo陣内、B穴井のオリジナル・メンバーに加え、2014年の再結成から参加しているギターの澄田健、2018年から参加したドラムにブルー・トニック〜ザ・スリルの田中元尚、ギターにモーサム・トーンベンダーから百々和宏。 オープニングの「糸島の太陽(カリフォルニア・サン)」はリヴィエラズ〜ディクテイターズ〜ラモーンズも演奏していた「California Sun」のカヴァー(オリジナルはジョー・ジョーンズ)。歌詞はダンドイ舞莉花と陣内による日本語詞で、カリフォルニアならぬ福岡・糸島の海岸を舞台にした博多弁で歌われる痛快でFUN FUN FUNなナンバー。 続いて「可愛いアノ娘」。これまでスタジオ・ヴァージョンがリリースされていないTH eROCKERS初期からの代表曲で、TH eROCKERSファンの誰もがスタジオ・ヴァージョンを待ち望んでいたが、やはり38年振りとなるスタジオ・アルバムに収録することでケリをつけたかったのだろう。うれしい1曲だ。 軽薄で浮気な性格だけれども憎めない色男を描かせたらピカイチな陣内作詞、TH eROCKERS作曲の「三流の恋仇」、ザ・フー〜ザ・ジャムもカヴァーしていた「HEAT WAVE」、オリジナルはマーサ&ヴァンデラス。歌詞はダンドイ舞莉花と陣内による日本語詞で、熱病にかかったような恋の病を歌う。 恋の終わりでも強がりを、そしてクリスマス・ソングともいえそうなラモーンズ・ライクなポップ・ナンバー「恋のファンファーレ」、プレスリーのカヴァー「サスピシャス・マインド」。これも歌詞はダンドイ舞莉花と陣内による日本語詞。恋に落ちたが故に疑心暗鬼になる心情、それが恋の罠なんだと歌うアコースティック・フレーヴァーな曲。「恋に溶けてゆく」は高橋研作詞・陣内作曲のロカビリー・タッチ。エッジの効いたギターがカッコいい。 福岡民謡の「黒田節」は意外な選曲だが、田中のダイナミックなドラミングを生かしたアレンジで、ディック・デイル「Mis

OZZY OSBOURNE『BLIZZARD OF TORMÉ』

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LangleyよりリリースのブートレグCD-R。 オジー・オズボーンがソロ2作目『ダイアリー・オブ・ア・マッドマン』リリースにあわせて全米を巡る“ダイアリー・オブ・ア・マッドマン・ツアー”の最中の1982年3月19日、ギタリストのランディ・ローズを乗せた小型飛行機はパイロットの操縦ミスによってオジー・オズボーンらメンバーの目前で墜落、ランディを含む3人が死亡した。ランディは25歳の若さだった。 オジーはこの悲劇に激しく動揺し、このままツアーばかりでなく、もはや音楽さえも続けることは出来ないと悲しみ苦しみ嘆き、ツアーは一時的にストップしたが契約上ツアーを続けなければならなかった。3月後半の公演は中止・延期となり、数人のギタリストのオーディションがおこなわれたという話もあるが、後にオジーの妻となるマネージャーのシャロンがバーニー・トーメを代役に抜擢した(シャロンの父親はThe Bernie Tormé BandがレコードをリリースしていたJet Recordsの社長で、当時のオジーもJet Recordsからリリースしていたから、そのあたりも影響しているか…)。 “オジーのレコードを聴いたのはアメリカに移動する前日か前々日で、ロサンゼルスでオジーのバンドと会ったのはランディの死後1週間くらい経った頃だった” とバーニー・トーメがローリングストーン誌に語っていることから、悲劇の2〜3日後にバーニーにオファーがあり、3月26日頃にバンドと合流、その後わずか6日後、4月1日ペンシルバニア州ベスレヘムにあるステイブラー・アリーナがバーニーにとってオジーとの初ステージとなった。 バーニーは僅かな時間でオジーの楽曲、それもワンステージ分を習得しなければならなかった。バーニーは“ウォークマンで曲を聴き、曲の構成とランディのフレーズが入るタイミングを覚える以上のことは出来なかった。プレイしながら徐々に細かいことを覚えるしかなかった”と語っている。 右上のジャケ写はラングレーから2000年代の初め頃にリリースされたと思われる、1982年4月3日コネチカット州ニュー・ヘイブンでおこなわれたバーニーが参加して3回目のショーのオーディエンス録音を収録したブートレグCD-R。おそらくステージから遠いところで録音されたものと思われ、演奏は固まりになっており観客が手前にいるのが感じられて音質はあまり

GILLAN「TROUBLE」

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1980年12月20日、ビクター/ヴァージンよりリリースのミニ・アルバム『レディング・ライブ&モア』より。 The Bernie Tormé Bandはファースト・シングル「I'm Not Ready」リリース後、1979年に4曲入りのセカンド・シングル「Weekend / Secret Service c/w All Night / Instant Impact」をリリース、BoysやGeneration X、Bethnalといったバンドをサポートし、自らもライヴをおこなっていたが、バーニー ・トーメは自己パロディ化したパンク・シーンに幻滅していた。さらに彼のバンドが2枚のシングルをリリースしたJet Recordsから契約解除され、The Bernie Tormé Bandはあえなく解散。 その頃バーニーはかつてスクラップヤードというバンドで一緒にプレイしていたベーシストのジョン・マッコイに再会、マッコイが参加していたバンドGILLANのヴォーカリスト、イアン・ギランに誘われバーニー・トーメはギタリストとしてGILLANに加入する。バーニー加入についてイアン・ギランは、 “バーニーを初めて見たのはコルチェスター大学のライヴで凍えるほど寒い冬のある日だった。彼がギターをアンプに繋ぐと、寒々とした会場に暖かい流れるようなサウンドが満ち溢れたよ。次の瞬間、彼は爆発したんだ。膝をついて、ギターを食いちぎり始めたのさ。あんな光景は見たこともなかった。だから、ギランにメンバー交代があるとすれば、バーニーに加入してもらうのが当然に思えたんだ” と語っている(イアン・ギランのオフィシャルHP Cramba! のGigographyによるとバーニーはアベリストウィス大学のギグで初めて会ったと言っていたらしい)。 更にドラムをミック・アンダーウッドに交代、ニューラインナップのGILLANがスタートした。 1979年6月からアルバム『ミスター・ユニヴァース』のレコーディングを開始、7月10日から3日間ロンドンのマーキー・クラブでニューラインナップでのデビューライヴ。 8月25日、第19回レディング・フェスティヴァルに出演。この時の模様の一部はBBCによって録音され「フライデーロック・ショー」で放送された。 小規模なドイツツアーの後、9月19日、ロンドンのパリス・シアターでBB