OZZY OSBOURNE『BLIZZARD OF TORMÉ』
オジー・オズボーンがソロ2作目『ダイアリー・オブ・ア・マッドマン』リリースにあわせて全米を巡る“ダイアリー・オブ・ア・マッドマン・ツアー”の最中の1982年3月19日、ギタリストのランディ・ローズを乗せた小型飛行機はパイロットの操縦ミスによってオジー・オズボーンらメンバーの目前で墜落、ランディを含む3人が死亡した。ランディは25歳の若さだった。
オジーはこの悲劇に激しく動揺し、このままツアーばかりでなく、もはや音楽さえも続けることは出来ないと悲しみ苦しみ嘆き、ツアーは一時的にストップしたが契約上ツアーを続けなければならなかった。3月後半の公演は中止・延期となり、数人のギタリストのオーディションがおこなわれたという話もあるが、後にオジーの妻となるマネージャーのシャロンがバーニー・トーメを代役に抜擢した(シャロンの父親はThe Bernie Tormé BandがレコードをリリースしていたJet Recordsの社長で、当時のオジーもJet Recordsからリリースしていたから、そのあたりも影響しているか…)。
“オジーのレコードを聴いたのはアメリカに移動する前日か前々日で、ロサンゼルスでオジーのバンドと会ったのはランディの死後1週間くらい経った頃だった” とバーニー・トーメがローリングストーン誌に語っていることから、悲劇の2〜3日後にバーニーにオファーがあり、3月26日頃にバンドと合流、その後わずか6日後、4月1日ペンシルバニア州ベスレヘムにあるステイブラー・アリーナがバーニーにとってオジーとの初ステージとなった。
バーニーは僅かな時間でオジーの楽曲、それもワンステージ分を習得しなければならなかった。バーニーは“ウォークマンで曲を聴き、曲の構成とランディのフレーズが入るタイミングを覚える以上のことは出来なかった。プレイしながら徐々に細かいことを覚えるしかなかった”と語っている。
右上のジャケ写はラングレーから2000年代の初め頃にリリースされたと思われる、1982年4月3日コネチカット州ニュー・ヘイブンでおこなわれたバーニーが参加して3回目のショーのオーディエンス録音を収録したブートレグCD-R。おそらくステージから遠いところで録音されたものと思われ、演奏は固まりになっており観客が手前にいるのが感じられて音質はあまり良くない。それでもそれぞれの楽器、ヴォーカルは聴き取れるのでバーニーが参加したオジーのライヴの模様を知ることが出来る。
CDに収録されている曲目は、
1. Intro: Diary of A Madman
2. Over The Mountain
3. Mr.Crowly
4. Crazy Train
5. Revelation (Mother Earth)
6. Steal Away (The Night)
7. Suicide Solution
8. Bernie Tormé Guitar Solo
9. Tommy Aldridge Drum Solo
10. Goodbye To Romance
11. I Don't Know
12. Believer
13. Flying High Again
14. Iron Man
15. Children of The Grave
16. Paranoid
ネット上にあるsetlist.fm よると、ランディ・ローズがいた時とほぼ変わらない曲目を演奏している(バーニーが参加する前には上記の他に「No Bone Movies」が加えられている時があった)。ファーストアルバム『ブリザード・オブ・オズ』とセカンド『ダイアリー・オブ・ア・マッドマン』収録曲に加え、ラスト3曲はブラック・サバス時代の楽曲が演奏されている。
「Crazy Train」、「Revelation (Mother Earth)」から「Steal Away (The Night)」へとつながる高揚感、オジーとランディが初めて一緒に書いた曲だという「Goodbye To Romance」でのリリカルなギタープレイを再現するバーニー。クライマックスはバーニーのギターによるサバス・ナンバー、アンコールの「Paranoid」で熱狂のうちにステージは終了。
ランディ・ローズの決めフレーズは確実に押さえながら、バーニー独自のフレーズもプラスした演奏はスリリングかつエキサイティングでオジー楽曲の魅力をさらに引き出している。このあたりはプロといえば当たり前だが、即戦力以上としてバーニーに白羽の矢を立てたシャロンの嗅覚も鋭いと思う。但しこれはバーニー・トーメのファンである私が思うことで、ランディ/オジーのファンからは好意的な見方はされていなかったようだ。
“ギター1本持ってアメリカに行ったんだ。バンド内はランディの事故死によって悲しみに暮れていてね。とてもじゃないけど、僕は溶け込めないと思った。彼のマネージャーから、正式にバンドに参加しないかって話もあったけど、 当時僕は自分のバンドをスタートしたばかりだったんで、ていねいに断ったよ”(TORMÉ 『バック・トゥ・バビロン』有島博志によるライナーノーツより)
バーニーがオジーのバンドに参加した経緯や短期での離脱については幾つか聞いたり読んだりしていたが、ネット上にアップされていたオジーとバーニーのローリング・ストーン誌の記事が書かれた頃には、辛いことがあったにせよお互いに慈しみあえる思い出となっていたようだ。それにオジーとバーニーのレコードセールスに関するやりとりにはおもわず笑ってしまった。
バーニーは4月5日ニューヨーク・マジソン・スクエア・ガーデン公演を含む、4月1日〜4月10日までの間におこなわれた7回のショーに参加、オジー・オズボーンとの邂逅は短期間で終わったが、それはもともとバーニーにとっては予定されていたものだったようだ。バーニーは計画通り自身のソロ・プロジェクト再開に向けてイギリスへ戻っていった。
参考文献:『Heavy Metal Photo Book Vol.5 Ozzy Osbourne』(シンコー・ミュージック刊:1984年)、Ozzy Osbourne『グレイテスト・ヒッツ〜オズマン・コメス〜』ライナーノーツ、 TORMÉ 『バック・トゥ・バビロン』(SP-25-5252)有島博志によるライナーノーツ