小山卓治「ハヤブサよ」
小山卓治のCDを買ったのは久しぶりだなぁ。
一番最初の自主シングルはともかく、1980年代にリリースされたディスクはシングル、アルバムとも全部揃ってる。1990年代からは買っては手放しって感じで、インディになってからは買う事もなくなってしまったんだけど(まぁ、その辺で売ってなかったしね)。80年代、日本のスプリングスティーン・フォロワーの一人としても紹介されていたが、甘すぎず、一番リアリティがあるというか、紡ぎだす物語がファンタジーじゃなく、絵空事にすぎない感じがしたものだ。
…だけどストーリー仕立ての楽曲は初めのうち “これを歌にするとは” という驚きがあって新鮮だが、何度も聴いているうちに、あまりに具体的すぎるストーリー性が仇になって聴かなくなってしまう。物語の結末を知っている訳だからね…。でも本当にいい曲は耐性を持っていて、発表されて数年後に聴き直してみると、あぁやっぱりいいな、と感じるものだし、自分が歳をとってから聴いて受ける新たな印象というのもある。私が小山卓治の1980年代のディスクを手放さないのは、聴きたい時が必ずあったし、これからも来るからだと思う。
いつからか白浜久のブログを読むようになった。
2014年11月15日に南相馬で小山卓治と白浜久のライヴがあり、この2人が一緒にライヴをするというのも意外だったのだが、白浜久のブログに載っていた、その道行きも興味深いものだった。南相馬へ向かうにつれて高くなっていく放射線量、地震に破壊されたままの風景、除染土を入れた袋が積み上げられ変わり果てた風景、宿舎にした仮設の集会所、ライヴ終了後打ち上げの事などが写真と共に綴られていた。ライヴ2日後のブログにはこう書かれいる。
“今回の福島訪問で感じたこと
小山氏が呟いた「この現状を伝える言葉を僕は持っていない」
これに尽きる”
小山氏が呟いた「この現状を伝える言葉を僕は持っていない」
これに尽きる”
小山卓治のFacebook、2015年4月21日付けには、こう書かれていた。
“新曲〈ハヤブサよ〉は、福島県南相馬でライヴをやったことがきっかけで生まれた。
(中略)
その時に目の当たりにした現実を誰かに伝える言葉を、僕は持てなかった。
被災地の人たちが体験したことを、僕は想像でしか感じることができなかった。
この現実を伝えるのは、ジャーナリズムの領域だと思った。
音楽にできることは、ほんの少ししかない。
例えば、富岡駅の前にひっそりと咲いていた、たんぽぽのはかなさを歌う。
例えば、小高町で見上げた切ないほど美しかった夕焼けの赤を歌う。
それがみんなの心に届くことを祈って。(以下略)”
小山卓治は今年1月に香港を訪れ、そこで「ハヤブサよ」は生まれ、南相馬でライヴを共にした白浜とレコーディングをする事にした。
「ハヤブサよ」は小山卓治・ヴォーカル、白浜久・ギター、ベース・浅田孟でレコーディング。クレジットには無いがピアノの音も聴こえる。白浜はこの曲のプロデュースもしているので、 ブログにはレコーディングの進捗も書かれていた。初めは川嶋一秀のドラムでレコーディングされていたが、最終的には打ち込みのドラムに差し替えになったという。 んー聴いてみたいなぁ、その幻のテイク。
なんか裏話的なことばかり書いたけど、久々聴いた小山卓治の歌声は変わってないなぁ。歌詞の内容は確かに小山卓治が見てきた原発事故後の街が描かれている。フォークルの「イムジン河」で描かれていた国境を自由に行き来する水鳥のような視点を、小山卓治はハヤブサに託した。放射性物質により警戒区域となり人の立ち入りが禁止された場所の今の姿を見ることを。空へと還ってしまった近しい人達への伝言を。
そして歌の中には原子力発電に対する思いも垣間見える。
原子力発電を選んだ過ちを認め、原子力発電を止めてやり直すこと、いつ地震によって福島と同様の原発事故が起きるかわからない現状で、そのチャンスは間に合えばあと1度、ある。
“ハヤブサよ大空を舞い
しかっておくれ
あの時僕らは間違った
道を選んだんだと
ハヤブサよ大空を舞い
気づかせておくれ
やり直すチャンスはきっと
あと1度はあるんだと”
レコーディングは白浜久のプライベート・スタジオで行われたが、曲の仕上がりはデモって感じ。個人的にはもう少し広がりと厚みのある音響が欲しかった。楽器間のまとまりに欠けるかなぁ。それに差し替えられたドラムの件もあるしね…。コーラスも欲しい…。それでも私の好きなアーティスト2人がコラボした楽曲だから満足。Amazonで買えるし。
カップリングは、アコースティック・ギターと小山の歌声のみの優しくも悲しい「パパの叙事詩(Demo Vesrsion)」とインストの「ハヤブサよ(Off Vocal)」。
「ハヤブサよ」の小山卓治 with 白浜久のセッション動画。Youtubeで公開されている。