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3月, 2019の投稿を表示しています

追悼・萩原健一「さよなら」

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2019年3月26日、萩原健一、逝く。 小学生の頃見たマカロニ刑事の殉職シーンは強烈な印象を残したし、前も書いたけどドラマ『傷だらけの天使』、特にオープニング・クレジットの映像には影響された。2008年に出版された自伝「ショーケン」も読み応えのあるものだった。スキャンダラスで破天荒なことも多々書いてあるが、仕事に対するこの人のセンスは抜群だな、と思った。音楽というとこの1979年にリリースされたライヴ・アルバム『熱狂雷舞』が真っ先に頭に浮かぶ。 柳ジョージ&レイニーウッドと組んだ1979年の全国ツアーで録音され、アナログ盤2枚組でリリースされた。私は多分リリース後しばらくして友人のKBちゃんに勧められて借りてものの、このサウンドはちょっとアダルトでパンク・ニューウェイヴにかぶれていたその頃の気分にはフィットしなかった。だけど随分経って、ショーケンの歌声とあの時アダルトだと思った演奏を聴き返したくなり入手したのは右上ジャケ写の紙ジャケCD。このジャケットはデカく“熱狂雷舞”と書かれた帯も含めてのデザインだと思う。 オープニングのラテンな雰囲気はストーンズの『ラヴ・ユー・ライヴ』がチラリと思い浮かぶ。イントロダクションに使われた「Weeping In The Rain」に始まり、 河島英五の「酒と泪と男と女」、内田裕也が持ってきてくれたというBOROの「大阪で生まれた女」、柳ジョージの「祭ばやしが聞こえる」や「本牧綺談」などお馴染みの曲とともに、アルバム『Nadja II』『Nadja-3』収録曲が多く「蜃気楼」、「漂流記」なんかは今聴いても演奏はモダン。他にPYG「自由に歩いて愛して」、速水清司「コンクリート・ジャングル」を取り上げている。 ラストには速水清司作の「さよなら」が収録されている。 別れる時が来たよ でもすぐにまた逢えるさ そんなに長いあいだじゃない そうさ 話も残ってるしね また逢おうきっとだよ おぼえておいて

追悼・BERNIE TORMÉ BERNIE TORMÉ BAND「I'M NOT READY」

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なんてこった。バーニー・トーメの訃報が。 バーニー・トーメはウイルス性疾患の合併症のため治療を受けていたが、67歳の誕生日を翌日に控えた2019年3月17日に息を引き取った。享年66歳。 私がハード・ロック/ヘヴィメタルを聴いていた中学生の頃、GILLANのギタリストだった事から聴き始めたバーニー・トーメ。彼自身の音源や参加音源は見つければ買っていた。バーニー自身のレーベルRetrowrek ‎Recordsがバーニーの音源のリイシューや新譜や発掘音源をリリースし始めた1990年代後半からは熱心に追いかけて聴いていたが、フィリップ・ルイスらと組んでいたバンド、トーメのアルバム『ダイ・プリティ・ダイ・ヤング』の再発、Angel Air Recordsからの発掘ライヴ盤『Live Sheffield 1983』がリリースされた2002年までか、買ってたのは。 その後もG.M.T.のアルバムやソロ・アルバムが出てるのは知ってはいたんだが入手せず…。それでも、もしバーニー・トーメが来日すれば観に行きたいなぁと夢想していた時期もあったんだが…。思い起こせばアルバム『フューチャー・ショック』(1981年)リリース後にGILLANの来日公演があったが、既にバーニーはバンドを離れていたんだよね…。 時に1977年、勃興したパンク・ロックに触れたバーニーはエキサイティングでアグレッシブ、そしてボーイッシュな魅力に溢れていると感じたが、当時バーニー24歳。既に歳を取り過ぎていると思うものの自らを変革せずにはいられなかった。髪を短く切り、リック・ウエイクマン風の刺繍マントも必要なくなった。バーニーはセックス・ピストルズに影響を受けつつもギターソロを弾くことを止めることが出来ない“Punk Guitar Hero”という矛盾した存在となった。だが、それこそがバーニー・トーメだった。 オリジナル・パンクの曲調としてはテクニカルなギターソロ・パートは無用、ブルース的な要素を含むギターフレーズも不要、という面があったが、バーニーはそうじゃなかった。タイトでコンパクトでスピーディなチューン、歌の合間に鋭く差し込まれるギターフレーズやアーミング。パンキッシュな演奏にハード/ブルージー/ノイジーなギターソロ。 Punk or What? 1975年にアイルランドのダブリンからロンドンへ移り住んでスクラ

追悼・内田裕也「長いお別れ」

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内田裕也、逝く。 1980年代観た『十階のモスキート』と『水のないプール』はどちらも内田裕也の個性的な演技で強く印象に残った映画だった。 その頃リリースしたシングル「長いお別れ(The Long Goodbye)」(右の内田裕也の写真はそのシングル盤・ジャケットより)。 Photo by Tenmei Kanoh 少し長すぎた夜 最後のグラス お前と俺のギムレット 地平線抱きながら Good-bye so so long Good-bye But someone to be watching over me

ORCHESTRAL MANOEUVRES IN THE DARK「ELECTRICITY」

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1980年、ヴァージン/ビクターよりリリースのシングル。 前回オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク (OMD)「Of All The Things We've Made」を紹介するのに改めてOMDを聴いていて、なんか「Electricity」のヴァージョン違いが随分あるな…と思い、ちょっと調べもの。ウィキペディアによると、 Version 1…ヴァージン傘下DinDiscから1979年9月にリリースしたシングル・ヴァージョン。エコー感、シンセの音など個人的にはこれが好み。 Version 2…ファクトリー・レコードから1979年5月にリリースされたシングル・ヴァージョン。OMD最初のシングル。シンセ、ドラムの音などややチープな音作りだがラフな魅力あり。 Version 3…DinDiscから再度1980年3月にリリースされた3回目のシングルで、ファースト・アルバムに収録されたアルバムヴァージョンを収録。Version 1をリミックスしたもの。 Version 4…セカンド・アルバム『オーガニゼーション』制作時にレコーディングされ、DinDiscのコンピ『DINDISC 1980』に収録されたヴァージョン。ドラムはマルコム・ホルムスが参加。 スタジオ・ヴァージョンは以上4つのヴァージョンがあるということだ。ウィキぺディアによればVersion 1がオリジナル・ヴァージョンとなっている。 ややこしいのはファクトリーからリリースされた最初のシングル(FAC 6)にはファクトリーのマーティン・ハネット(=マーティン・ゼロ)によるプロデュースの「Electricity」 がオーヴァープロデュースであるとして使われず、リヴァプールのスタジオでOMD自身とポール・コリスター(=チェスター・ヴァレンティノ)がプロデュースし録音した「Electricity」 が使われていることだ(さらにややこしい事にこちらはデモ・ヴァージョンだとかオリジナルとする説もある…)。そしてOMDがファクトリー・レコードを離れて契約したヴァージン傘下のDinDiscからリリースした初回のシングル(DIN 2) にファクトリーのシングルで使われなかったマーティン・ハネットがプロデュースしたヴァージョンの「Electricity」が使われている。そのためかUK盤などには“Factory Re

ORCHESTRAL MANOEUVRES IN THE DARK「OF ALL THE THINGS WE'VE MADE」

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2000年、Virginよりリリースのアルバム『PEEL SESSION 1979-1983』より。 オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク (OMD)といえば大江慎也がアルバム『ぺキュリア』(1989年)リリースにあわせたツアーでOMDの「Electricity」を演奏、その時期と思われる「Electricity」のライヴ・ヴァージョンを日本コロムビアが大江のソロアルバム『BLOOD』を1991年にリイシューした際にボーナス・トラック収録、 と、そんなところからOMDの「Electricity」や初期ヒット曲「Enola Gay」のシングル盤なんかは購入していたんだが、それ以外は聴いたことがなかった。 少し前に紹介した、1984『逆噴射家族フィルムサウンドダイジェスト』のラストに収録されていた「新しい生活~レクイエム(Requiem)ラストテーマ」、または、1984がリリースしたカセット収録の「Walkin' In The Space」やアルバム『Birth of Gel』収録の「Space 1999」、この曲がOMDの「Of All The Things We've Made」から影響を受けて作られたらしいというのを聞いたのはいつ頃だったか…。で、たまたま中古で見つけた「Of All The Things We've Made」が収録されているこの『PEEL SESSION 1979-1983』を購入した。 『PEEL SESSION 1979-1983』は、OMDが4回のBBCピールセッションで録音・放送した楽曲を集めたアルバムで、下記の日付に録音されている。 1979年8月20日 1980年4月14日 1980年9月29日 1983年1月29日 1回目のセッションは、まだファースト・アルバム・リリース前の録音で、後にファースト・アルバムに収録される4曲が演奏されている。1980年2月ファースト・アルバム・リリース後に録音された2回目のセッションでは、ファースト・アルバムから2曲(「Pretending To See The Future」が「Pretending To See The Light」と表記されている)、1980年9月にリリースされるシングル曲「Enola Gay」、 1980年10月リリースのセカンド・アルバム