私の放浪音楽史 Vol.126 TRACEY THORN『A DISTANT SHORE』
1982年、チェリーレッドよりリリース、トレイシー・ソーンのソロ・アルバム。
オリジナル・パンクに影響を受けギターを手に取ったトレイシー・ソーンが、マリン・ガールズでのギタリストとしての活動に迷いを感じ、自分の書いた曲を自らの声で歌うことに未来を見出していた頃、1981年の冬に書き溜めていた曲を、以前マリン・ガールズのアルバム『ビーチ・バーティー』を録音したパット(パトリック・バーミンガム)所有の物置スタジオ(物置に設置された移動式録音スタジオ)で録音。全てを2日か3日で録音し費用は179ポンド、トレイシーはデモのつもりだったがチェリーレッドのマイク・オールウェイの勧めもあり、そのままの形でリリースすることになった。この時トレイシー二十歳。
アルバムはトレイシーの“歌声とギターに、時折パットがリバーブをかけているだけ”の最小限のサウンドだが、その耳心地の良さで聞き流されることにトレイシーは、“バックグランド・ミュージックの類と一緒にされてしまうことは、正直言って気に食わないの”と厳しい言葉で反発している。そのサウンドはトレイシーがジョナサン・リッチマン&モダン・ラヴァーズやパトリック・フィッツジェラルドを評した “喧しいほどの音を立てることなどせずとも生々しくかつ挑戦的であることは可能なのだ” という言葉に通じていると思う。
リリース時の日本盤解説などにはニューセンシティヴィティー(New Sensitivity)と言われたように、苦く不安定に揺らぐ繊細な気持ち・感性が歌われている。
“日が暮れて暗くなると気持ちが昂って(言わなくていいこともあるのよ)
感情だけ取り残されてしまうことがある
だから、あなたの愛はそのままにしておいて、私も胸にしまっておくわ
あなたの愛はそのままにしておいて、私の愛も胸にしまっておくから
小さな田舎町の生き方から今も抜け出そうとしてるけど
私の大部分は過去の恥ずかしい出来事で形作られているの
あなたは気にしないっていうけど
その場にいなかったのにどうしてそんなことが言えるの?
そしてこれら全ては、小さな田舎町の女の子にとっては手に余るのよ
ただ立ちすくむだけ
私が見る、あなたの世界全てに私は戸惑ってしまって
今日どこにいるのかもわからないほど
だけどあなたにはそんな風に見られたくない”
「Small Town Girl」written by Tracey Thorn
アルバム・タイトル『A DISTANT SHORE』…ここではないどこか辿り着きたい場所。3曲目の「Seascape」の歌詞にその言葉が使用されている。誰かと出会ったことで変わった自分が辿り着く場所に思いを馳せる姿が描かれている。
“防波堤に影を映して
灰色に流れる雲を見ている
日が沈むまで海岸に佇んでいた
潮の流れを見ている 私をどこか遠い岸辺へ連れ去る流れを
それに私は身を任せたい
風がそよぐ崖の上で波を見ている
前は悲しく感じたけど
でも今日は違う
海もその秘密も全部知っていると思ってたけど
あなたと一緒の11月は違う
「Seascape」written by Tracey Thorn
トレイシーのオリジナル曲が並ぶ中で4曲目にはヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコの「Femme Fatal」のカヴァーが収録されていた。ニコはトレイシーのヒロインでもあった。ボサノヴァに寄せたギターのリズムが個性的。一部歌詞を変えているようだ(The things she does to please→The things she does to me)。
“あなたは彼女のリストに載ってる
見てごらん、37番目よ
あなたをしかめっ面にするために彼女は微笑む、なんて馬鹿なの
坊や、彼女は街育ち
始まる前から勝ち目はないの
彼女はあなたを弄ぶ、本当よ
だって誰でも知っているわ(彼女は宿命の女よ)
彼女が私にしたことは(思わせ振りで)
ちょっとからかってるだけ(人を惑わせる)
彼女の歩き方を見て 話し方を聞くのよ”
「Femme Fatal」written by Lou Reed
メジャー7thな響きを持つギターが印象的な「Simply Couldn't Care」や「New Opened Eyes」、メランコリックなコード感の「Dreamy」、シングルになった「Plain Sailing」、言い争いを繰り返すカップルが、言葉の真意を汲み取ることで“幸せすぎるって信じられなかったけど、今私たちはそうなれる”と気づく「Too Happy」がラスト曲。以上8曲がオリジナル・アルバムに収録されていたが、日本盤ではエヴリシング・バット・ザ・ガール名義でリリースしたシングル「Night And Day」とそのカップリング曲「On My Mind」が追加収録されていた。ボーナストラックを除けば23分ほどのコンパクトな収録時間だった。右上の画像はバップから1985年9月1日に再発リリースされたアナログ盤で、A面最後に「On My Mind」をB面最初に「Night And Day」を追加している。
ジャケット・アートはマリン・ガールズのベーシスト、ジェーン・フォックスによるドローイング。
日本盤の初版はトリオからリリース、それを友人に借りてカセットに録音して繰り返し聴いたし、自分でもアナログ、CDと購入して愛聴した。冷えた空気と小さなガス・ストーブのような温もりを感じ、さらにポストパンクのアマチュアリズムの繰り返しから抜け出そうとする聡明さと洗練をも感じさせるアルバムだった。
2024年にはエクスパンデッド・エディションもリリースされ、オリジナルの8曲の他に下記デモ5曲を追加している。
9. Lucky Day
10. Another Bridge
11. Even So
12. The Spice Of Life
13. Fascination
このデモはトレイシーのカセットテープ・アーカイブから選ばれたもので「Lucky Day」はアルバムと同じセッションで録音されたもの、他10〜13は後にエヴリシング・バット・ザ・ガールのファーストアルバム『エデン』で録音されることになる曲のトレイシーによるデモ。
参考文献:『安アパートのディスコクイーン:トレイシー・ソーン自伝』(トレイシー・ソーン著・浅倉卓弥訳・2019年)
