追悼・忌野清志郎 RCサクセション「トランジスタ・ラジオ」
忌野清志郎が亡くなった。2009年5月2日のことだ。
その日はGWの初日、CD屋巡りをしながら「清志郎、再入院したけど最近情報がないね」なんて話しもしていた。夜遅く帰ってきて飛び込んできた訃報に愕然となって、その夜は眠れなくなり自分でもそのショックの強さに驚いた。
1980年(昭和55年だ)の冬休み私は初めてアルバイトをした。
年末年始に郵便局で募集していた郵便配達のバイトだ。自転車で自分の受持ちの地域へ葉書や封書や年賀状や時には現金書留なんかを配達した。最初の頃は配る家を間違えたりして注意を受けたりしたが、その休み中は雨が降らなかったこともあり、楽しい思い出だ。自転車に乗りながら口ずさんでいた歌が「トランジスタ・ラジオ」だった。
リリースされたばかりのこの曲(シングルリリースは1980年10月)をよく聴けたなと思うし、憶えていたなぁと思うのだが、友人がアルバム『プリーズ』を買っていて借りたのかもしれないし、ラジオでオンエアされたのを聴いていたのか、テープに録音したのかもしれない。
“ベイエリアから リバプールから”というところが妙に気に入っていた憶えがあって、毎日何回も歌いながら町中をくるくる廻っていた。 その時の幾ばくかのお金は、自分自身の初めてのラジカセになった。
だからこの曲を聴いたり歌ったりすると、実家の近くの細い道を郵便局に向かって走っている朝の風景や 配達先のアパートの近くを走っている風景が浮かんでくる思い出深い曲だ。もう少し、RCや清志郎について書いてみよう。
初めてRCを聴いたのは『ラプソディ』だった。やはり「雨上がりの夜空に」に強烈な印象を持った。ちょうど同じ頃リリースされた子供ばんどのアルバム『WE LOVE子供ばんど』に収録されていた「サマータイムブルース」とともに 私達音楽少年の愛唱歌になった。
やがて自分の興味がパンク、ニューウェイブへ移っていき、もっとソリッドで硬質な(当時のRCにその要素が無いとは言わないが)、日本のバンドだと東京ロッカーズ周辺やP-MODEL、ARB、ルースターズ、INU、スターリンなどを聴くようになり、しだいに成功していった RCを横目で見ながら、私は自主制作のシングル盤を出しているようなバンドを聴いたりするようになっていた。 1982年になる頃にはテレビのゴールデンタイムに出演したり、武道館でライブを成功させるなどRCは大メジャーなバンドになっていた。
と、まぁ私とRCとは疎遠になっていた訳だが、1984年に初めて生RCを見ることになる。1980年代初期は私達の音楽仲間ではブルース・スプリングスティーン好きも多く(ちょうど『リバー』が出たあたり)、あの独特の字余り歌詞とスピーディかつドライな演奏に痺れていた。1983年にデビューした小山卓治もスプリングスティーン・シンドロームの下にあると言われており、その小山卓治見たさに1984年7月22日西武球場のライブ『ALL NIGHT NIPPON SUPER FES.』に出かけていった。 小山卓治も良かったし(短かった)、その後の産休だったシーナ抜きのロケッツにも痺れた (鮎川が歌う「ピンナップ・ベイビー・ブルース」はかっこよかった)が、 なんといってもRCサクセションだ。もう私は帰ろうと席を立っていたのだが、それまでのバンドが広すぎるとさえ思えたステージをジャストサイズにしてしまう圧倒的なまでのステージング(まぁバンドメンバーが多いというのあるが)、迫力のある音量、ライティング。 私はスタンドの上の通路でその華やかなステージを最後まで観ていた。そして初めてこのバンドは物凄いバンドなんだと認識した(遅いっていうの)。
この後に清志郎を見たのは1988年1月に泉谷しげるがインクスティック芝浦で3日間連続でおこなったライブのゲスト。 何日目に出たか忘れたが、他の日は桑田、シオンだったかな。ゲストで出てきた清志郎は、アコギをもって“この曲は私の作った曲の中でも特に複雑、難解な曲で…”みたいな事を延々と説明した後、 “ぶり!”と叫んでスリーコードの凄く短い即興で作ったような曲を歌っていた。それも何回も“ぶり”を“いか”とかに変えて…。 コミカルな演奏の後、泉谷の曲「果てしなき欲望」を一緒に歌った。
そのすぐ後1988年2月渋谷公会堂でおこなわれた『THE COVER SPECIAL』にも出演していた。 清志郎は「バラバラ」、「風に吹かれて」を歌い、全員登場の「コミック雑誌なんかいらない」では、“俺にはコミック雑誌なんかいらない”の合いの手に “そうとも言えねぇ”とか“ビニ本がいい”とか“ヌード雑誌がいいぜ”とか言って会場の女子のひんしゅくを買っていた。
こうやって振り返ると生で3回しか観てないし、単独公演は行ってないし、熱心なファンとは言い難い。私にとって清志郎を積極的に聴いたのは1980年代前半を除けば、RCの『COVERS』、『コブラの悩み』、THE TIMERSとして活動していた80年代末だ。才気走ったそれらの活動はスリリングで時代と対峙したものだった。
ソロになってからの活動、2・3'Sや十字架シリーズの内容が当時の私にはフィットしなかった。 後になってその頃の楽曲もよいと思えるようになったり、「ロック画報」のサンプルCDで初期RCの印象が変わったりしたけれど。
リザードのモモヨが書いた自伝的小説『蜥蜴の迷宮』のなかにモモヨがジョン・レノンの訃報を聞いた際、 “ビートルズを聴いていた時期はあるが今は退屈に聴こえる”ので、ジョン・レノンはそれほど大切な人ではなかった、という受け答えをしたところ、訃報を知らせた人は“空気や重力のありがたみに気付く者は少ない”、“君にとってビートルズは空気のようなものじゃないのか?” とモモヨに問いかけ、そこでモモヨはそれまで自分が陥っていた思考狭窄に気付く、という箇所がある。
清志郎の死に衝撃を受けた私は、やはり“ありがたみ”に気付いたのだろうか。普段何気なく聴いていた、聴き流していた清志郎の歌声。私にとって、まるで空気のように存在していた清志郎というバンドマンの存在は、現世から消えてしまった途端、その大きさを改めて認識させられる事になった。