My Wandering MUSIC History Vol.59 佐野元春『SOMEDAY』
アルバムに先駆け1981年6月21日にリリースされた佐野元春のシングル盤「Someday」のジャケットには佐野の写真に沿うように “Now we are standing inside the rain tonight”と手書き文字で書かれている。曲の中でも終盤に佐野はこのフレーズをシャウトしているが、ボブ・ディランの曲「Just Like A Woman」冒頭の一節 “Tonight as I stand inside the rain” にインスパイアされたものだ。 “土砂降りの雨の中に立っている”ようなイメージがティーンエイジャーだった頃の佐野を取り巻く状況を示唆しているようで思わずシャウトしてしまったのだという。
「Someday」という曲はティーンエイジ・イノセンスを守ろうとする者とそれを妨害しようとする者をテーマにした歌だ、と佐野は語っているが、歌われている内容から受けるイメージには、激しい現実という“雨”に打たれながらも、やり過ごしている若者達の姿がある。欺瞞に満ちた世界の流れをやり過ごしているクールでインテレクチュアルな若者達…。その彼/彼女はアルバム『サムデイ』の他の曲に登場する “ちっぽけな虹を目に浮かべた恋人” や “ハッピーマン” や “ダウンタウン・ボーイ”、 “誕生日を祝う2人” や “現代のドンナ・アンナ”、“ブルーな夢追い人”、“真夜中の旅人” や “虚無生産工場の勤め人” 達であり、 “街のブルーバード”、“サンチャイルド” であるのだろう。
イノセントで幸福感に満ちた歌詞に思えるが、その裏に佐野はCCRの「Someday Never Comes」を引き合いに出し、 “いつか”なんて来ないんだ、という意味を同時に含んでいる、と語っている。 だけど、
“いつかは誰でも愛の謎が解けて ひとりきりじゃいられなくなる”
このラインは宣言と言ってもいいほどピュアな確信に満ちている。
「Someday」の冒頭で聴けるストリート・ノイズは、佐野元春がまだ会社員だった1979年9月、取材でロスを訪れていた時に街頭で佐野自身が録音したものだ。いつかアーティストとしてデビューできることを夢見ていた時の…。
さて、タイトル・トラック「Someday」の話が長くなったが、アルバム『サムデイ』リリースまでの流れを追ってみよう。
1980年の秋、佐野元春は伊藤銀次と共に大瀧詠一のレコーディングを見学し、レコーディングを仕切る大瀧の姿に多大な影響を受ける。
1980年12月23日に沢田研二がリリースしたアルバム『G.S. I Love You』に佐野元春は「彼女はデリケート」、「I'm In Blue」、「The Vanity Factory」の3曲を提供した。この沢田のアルバムは吉野金次がエンジニアを担当しており、完成した『G.S. I Love You』を聴いた佐野元春は次回のシングルとアルバムのミキシングを吉野にしてもらうことに決め、佐野はバンドメンバーを集め六本木のマグネット・スタジオにて2日間で次回シングル曲「Someday」のデモを録音する。
1980年の秋、佐野元春は伊藤銀次と共に大瀧詠一のレコーディングを見学し、レコーディングを仕切る大瀧の姿に多大な影響を受ける。
1980年12月23日に沢田研二がリリースしたアルバム『G.S. I Love You』に佐野元春は「彼女はデリケート」、「I'm In Blue」、「The Vanity Factory」の3曲を提供した。この沢田のアルバムは吉野金次がエンジニアを担当しており、完成した『G.S. I Love You』を聴いた佐野元春は次回のシングルとアルバムのミキシングを吉野にしてもらうことに決め、佐野はバンドメンバーを集め六本木のマグネット・スタジオにて2日間で次回シングル曲「Someday」のデモを録音する。
1981年3月22日、録音したデモテープを持って吉野金次の事務所を訪ね、吉野の了解を得る。大瀧詠一のレコーディングを見学した影響はそのままシングル「Someday」のレコーディングに持ち込まれ、佐野はレコーディングの全てに関わり初めてセルフ・フロデュース、その集中力と打ち込みようは伊藤銀次も驚きたじろぐ程だったという。
1981年6月21日、シングル「Someday c/w バイバイ・ハンディ・ラヴ」をリリース。
1981年7月24日、大瀧詠一から、杉真理とともに『ナイアガラ・トライアングルVol.2』の制作が発表される。
1981年9月15日、ナイアガラ~としてのシングル「A面で恋をして」のレコーディングが行われた。
1981年10月15日に佐野自身のサード・アルバムのためスタジオ入り、レコーディングは1982年2月頃まで続いた。並行して『ナイアガラ・トライアングルVol.2』のレコーディングも行われ、サード・アルバム用の曲「マンハッタン・ブリッジにたたずんで」が大瀧の要望で『ナイアガラ~Vol.2』収録曲になったということも。
1981年10月21日、ナイアガラ・トライアングルのシングル「A面で恋をして c/w さらばシベリア鉄道」リリース。B面は大瀧詠一。
1981年10月21日、シングル「ダウンタウン・ボーイ c/w スターダスト・キッズ」リリース。A面はアルバムとは別ヴァージョン。B面は後に追加レコーディングされてシングルA面としてリリースされた。
1982年3月21日、アルバム『ナイアガラ・トライアングルVol.2』リリース。
1982年3月21日、『ナイアガラ・トライアングルVol.2』からのシングル・カット「彼女はデリケート c/w こんな素敵な日には」リリース。B面は『ナイアガラ~Vol.2』に未収だった。
1982年5月21日、アルバム『サムデイ』リリース。
まぁ何が言いたいのかというと佐野のボピュラリティ獲得には『ナイアガラ・トライアングルVol.2』への参加とヒットによる影響が少なくないということだ。1981年6月にリリースしたシングル「Someday」はヒットせず(一説では最高位78位)、シングル「A面で恋をして」は最高位14位、アルバム『ナイアガラ・トライアングルVol.2』は最高位2位という記録で一般への認知は急激に広がり、1982年5月にリリースしたアルバム『サムデイ』は最高位4位のヒット・アルバムとなった。もちろん、この間の佐野のハードワークと制作したアルバム『サムデイ』の内容の素晴らしさによる結果なのは言うまでもないが。佐野自身も“当時の伊藤銀次と大瀧さんなくしては今の僕はないと思ってる”と語っている。
佐野元春の3枚目のアルバム『サムデイ』は奥村靫正デザインのジャケットに包まれリリースされた。このカラフルなジャケットは佐野の望んだものではなく、佐野自身はモノクロームのポートレートを希望していた(この希望は20周年盤で叶えられた)。アナログ・レコードには自作するブックレットが付属していた(こちらも奥村靫正デザイン)。
1曲めの「Sugartime」のイントロを聴いただけで10代の頃に引き戻されるような感じ。もともとは“エレファント・マン”というタイトルでもっと内向的な歌詞で歌われていたがシングル向きに歌詞を書き直したもの。杉真理がコーラスで参加している。スラップスティックな「ハッピーマン」。“仕事も適当に…”ってところ、好きだなぁ。「ダウンタウン・ボーイ」の出だし“ハニー・チェリー…”には驚いた、ほんとに。日本の歌でこんなキュートな歌いだし聴いたことなかった。 “本当のものよりきれいなウソに夢をみつけてる”っているフレーズにシンパシーを持ったなぁ。現実より作り物(音楽とかコミックとか小説とか映画とか)に興味を持って暮らしていた自分にこの歌を重ねていた。メロウな「二人のバースデイ」、「サムデイ」へのプレリュードのような内容を持つ流麗な「麗しのドンナ・アンナ」、 そして佐野にとってのティーンエイジ・シンフォニーの完成形「Someday」でアナログA面が終了。
沢田研二に提供した(もともとは佐野のファースト・アルバムに収録予定だった曲でもある)「I'm In Blue」は今回聴き直して改めて良いなと思った。 “Maybe I'm a loser. Baby I'm just a dreamer.”ってところが切ない。スローでシンフォニックな「真夜中に清めて」、実はリリース当時あまり好きじゃなかった「Vanity Factory」。コーラスで参加しているジュリーの声の印象が強すぎるのと、このアルバムのなかではストレートなギターサウンドがちょっと馴染めなかったかな。今、仕事に疲れた夜に聴くと沁みるね。
そして「ロックンロール・ナイト」。3度のハーモニーがつけられ強調されている“瓦礫の中のゴールデンリング”というフレーズ。下村誠著『路上のイノセンス』で下村はサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』からの引用を考察しているが、確かに無垢な心を持ったものが危険を顧みず掴もうとする幸運の象徴であると思える。 “瓦礫の中のゴールデンリング” はこのアルバムの他の曲にも形を変えて出てきていると佐野は語っているが、それを探してみるのも面白いだろう。ラストの「サンチャイルドは僕の友達」は前曲の緊張感を考えると要らないんじゃないかなぁと思っていた時期もあったんだけど、「ロックンロール・ナイト」の余韻を少し和らげる役目を持たせたという。なるほどね。だけど、
“こんなに素敵な一日の光を誰かの為に捧げるなんて
こんなに暖かい一日の光を誰かに奪われてしまうなんて”
という歌詞も容赦ないと思う。それまでは側にいてあげるよ、という歌だけど。佐野のアコースティック・ギター・テクが聴けるビートリッシュなナンバー。
いつかという日が来るのか来ないのか、希望と絶望をフィフティ・フィフティとして描いた「Someday」という曲は、リスナーに届いたときから圧倒的に希望を求める歌となった。しかし「Someday」は佐野が年齢を重ねるにつれてライヴのセットリストから外していた時期があった。1986年頃の事で、それは佐野の描いたピュアネスの進化としてあたりまえのことだと思う。だけど、やがて佐野は「Someday」を再びステージで歌い始める。1990年代前半のことだ。この曲をオーディエンスに聴いてもらう事に喜びを感じるようになったからだという。その時から本当の意味で「Someday」を聴衆へと渡したのだろう。
そして21世紀の現代、抗いがたく押し寄せてくる多くの絶望の中で、わずかな希望を探す歌となった。と同時に混沌を深めた現代の街で変わらない輝きを放っている。
参考文献:下村誠著「路上のイノセンス」、インタビュー集「AS 10YEARS GO BY」、「ミュージック・ステディ1985年3月号」、「地球音楽ライブラリー佐野元春」、 山下柚実著「時代をノックする音」、「ロック画報20」、季刊「Bridge 4」