追悼・森田童子「球根栽培の唄」

1983年11月30日、ワーナー/アトランティックよりリリースのアルバム『狼少年 wolf boy』より。

森田童子の訃報。
4月24日に心不全で死去。65歳だった。

前にも書いたが森田童子の音楽を初めて聴いたのは1983年か1984年頃、大学に通っていたT君が下宿していたアパートだった。友人の何人かで泊まりに行ったのだが、近くの吉野家で牛丼を買って夕飯を済ませ、宮崎駿・作の漫画『風の谷のナウシカ』を読んだりしながら、T君が聴かせてくれたのが森田童子の『マザー・スカイ』だった。青空の下で砕け散る十字架という印象的なジャケット、深く染み入る楽曲、ルックスと歌声のギャップは衝撃だったなぁ。

弱さ、孤独、悲しさ、絶望がそのまま歌になっている。励ましとか希望を歌にしているんじゃない。だけどその言葉が、歌詞が彼女の声によって歌われると仄かな優しさとぬくもりを感じとることができる。結晶化した悲しさを、炭化した絶望を歌っていても森田童子の歌には鎮痛剤のような作用・効能がある。

森田童子は“東京に生まれ学園闘争で高校を中退、1972年友人の死をきっかけに自作の歌を歌い始めた” とロフト創設者の平野悠著『ライヴハウス「ロフト」青春記』に記載されている(出身や歌い始めたきっかけや学生運動の関わりには諸説あるようだ)。そして1975年10月“私にここで歌わせてください”と西荻窪ロフトを訪ねて来たという記述がある。

『ROCK IS LOFT』のスケジュールを見ると西荻の1976年3月~1977年6月までほぼ月いちで森田童子の名前があり、1976年10月に新宿ロフトがオープンしてからは新宿ロフトのスケジュールにも名前が出てくるようになる。途中ライヴ休止時期もあったようだが、1983年12月までロフトの常連だった。ラストライヴは新宿ロフト1983年12月25日、26日の2DAYSだった。引退の告知等何もなかったという。

「球根栽培の唄」は森田童子の1983年リリースのラスト・アルバム『狼少年 wolf boy』に収録されている。オリジナル・アナログ盤には歌詞カードは付属せず、丸尾末広の漫画と森田童子の写真が印刷された2つ折りのリーフレットが封入されていた。1975年リリースのファーストアルバム『グッドバイ』と比べると随分とアレンジも多彩になっている印象のアルバムだ。そんな中でも「球根栽培の唄」は初期の頃のようなシンプルなアレンジの曲で、ギターのアルペジオではじまる。

“球根栽培”と聞いてチューリップの水栽培を想像するだろうか。
森田童子の歌の背景には学生運動の敗北・挫折感が色濃く感じ取れるから、硝子瓶に入れた球根の姿は火炎瓶のメタファーとして想像できるだろう。曲の途中には交差点の雑踏のようなSEが挿入され、後半にはそのままな情景を描いた歌詞が歌われる。

 “ガリ版刷りのアジビラが
 風に舞う
 赤ヘルメットのお前が
 ぼくを見つけて手を振った
 球根栽培の本を
 知ってますか
 孤立無援のいのちがもえて
 花火のように咲きます”
このアナログ盤を入手した当時、花火のように咲かせる“球根栽培の本”と聞いて思い出すのは70年代中盤に話題になっ“腹腹時計”だったが、後々調べてみれば“球根栽培法”というそのままの地下出版本があったのを知った。

森田童子はこの曲ではムービーカメラのように情景を映し出し、ひとり部屋に籠り武器を製作する人物をとらえている。この曲の語りの部分には、

 “淋しいページの音をめくり
 長い思想のむなしさを読む
 ぼくは どこまでも
 ぼくであろうとし
 ぼくが ぼくで
 ぼくであろうとし”
 ……

過激な武装闘争へと尖鋭化していった活動、対権力だけではなく、かつての仲間をも攻撃対象にした血みどろの凄惨な争いと粛清は共感を得られるわけもなく、理想を求めていたはずが、憎悪と嫌悪を生み出していた。1972年2月には日本中が目撃していた。1953年生まれの森田童子は1972年には19歳だから多感な時期に多くの出来事を目撃していただろう。そしてどんな思いを抱いていたのだろうか。

森田童子の訃報に際し、この曲「球根栽培の唄」を取り上げたのは、ナイーヴな歌声と武装闘争の指南書が組み合わさったアンバランスさが奇妙だなとずっと思っていたから。か細い歌声の向うにかつての時代への郷愁だけとは思えない危うさがあるように思えた。
いちばん好きな曲は「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」かな。透明な声に誘われて一緒にどこかへ行ってしまいたくなる。

1975年デビュー、1983年音楽活動停止、2018年他界。

スラップ・ハッピー・ハンフリーとして森田童子の歌を取り上げたJOJO広重は、1994年にリリースしたCD『Slap Happy Humphrey』のライナーノーツでこう書いている。
“森田童子が今、歌を歌わない理由はよくわかる。しかし今を生きる我々が彼女の歌を歌う理由もあるのだ、と思いたい”

2018年、今を生きる私達が彼女の歌を聴く理由も確実にある。

著書と出会いに違いがあるけど、
ロフトの席亭・平野悠のBLOG・何でも見てやろう
<伝説の森田童子の死>

ロフトのフリーペーパー・Rooftop
哀悼 森田童子(Rooftop1976年12月号再録)
森田童子セカンド・アルバム『マザー・スカイ =きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=』のこと

なんとYouTubeにはパンタと森田童子の音声動画が。

追悼 森田童子インタビュー・1975年「NHK若いこだま」より


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