エスケン著『都市から都市、そしてまたアクロバット 回想録1971-1991』

2018年6月河出書房新社より出版。

S-KENの回想録が刊行された。
個人的には東京ロッカーズ周辺で認識しているエスケンだが、 “エスケン”となる前、田中唯士として活動していた時期も詳しく書かれている。
ちょこっと内容を紹介すると...。


1971年、「自由通りの午後」の作曲者(歌唱はアイジョージ)としてエスケンはポーランドで行われた音楽祭“ ソボト国際音楽フェスティバル ”へ参加する。音楽祭への旅券は音楽祭終了後、どこへ寄って帰国しても良いという地球周遊券だった。エスケンは音楽祭終了後ロンドンから客として来ていた日本人と共にヒッチハイクで東欧のポーランド、チェコスロバキアへ。 厳しい国境検問所を抜けてヒッチハイクを続け西ドイツ、スイス、フランス、イギリスのロンドンへ。ここで相棒と別れエスケンは飛行機でアメリカへ渡り、ニューヨーク、サンフランシスコ、ハワイへと3ヶ月かけて東京へと戻る。
この時の体験がエスケンの “先入観を捨て古今東西の心揺さぶる音楽、アート、文学て徹底して探索する” 考え方のもとになったようだ。

日本に戻ったエスケンはレコード会社の要請でピースシティーというバンドを結成しリードヴォーカルを担当、「しぶう c/w 僕の愛した花」、「自由通りの午後 c/w バラの花のあなたに」の2枚のシングルをリリースしたが短期で解散。その後、月刊音楽雑誌『ライトミュージック』の編集者となり“世界中の音楽や文化全般を一気に吸収”する。そこでも悲喜こもごもあるわけだが、エスケンは編集者の立場を利用しアメリカ特派員という境遇を作り出し、1975年5月ロスアンゼルスへ旅立ち、ロスで暮らしながら当地の音楽状況を取材、1976年にニューヨークへ移り住む。ここではかねてからエスケンの好きだったニューヨークのラテン音楽“サルサ”に酔いしれる。

エスケンがサルサを気に入るきっかけとなったアーティストで、ライヴに何度も足を運んだウィリー・コロンの『LO MATO』(ロ・マト)というアルバムが紹介されているが、後のエスケンのファースト・アルバムのタイトル『魔都』はここから来てるんだろうなぁ…。
しばらくしてエスケンの特派員生活は終わるが、エスケンはニューヨークに留まることを決意する。興味は映画に移って連日映画館通いとなったが、CBGBへいった事をきっかけにして映画浸りの生活も終わりを告げる。ニューヨーク・パンクとの邂逅だ。

CBGBにエスケンは日参するようなり、そこでパティ・スミス、テレヴィジョン、ハートブレイカーズ、ラモーンズ、トーキング・ヘッズ、ブロンディ等々を目撃する。それらのバンドの演奏に、“この街のストリート感をそのまま取り込んだようなリアリティーと、今まさに何か新しい感性と概念が生まれてくるような熱気に満ちていた” とエスケンは記している。

私がエスケンの印象として残っているのは、エスケンが写した写真で、この本にも使われているが、パティ・スミス・グループのパラディアムでのライブ(1976年12月31日)を告知する、壁にずらりと貼られた革ジャン姿のパティ・スミスのポスターを写した写真だ。何の雑誌/本で見たのかは覚えていないが、おぉこのニューヨーク・パンク黎明期にエスケンはニューヨークにいたのか、CBGBに行ってたのか…すげえ…。また1977年にサウスブロンクス地区を中心に起きた最初のヒップホップ・ムーブメントにも遭遇した。
エスケンは1978年に帰国、ニューヨークで感じた/感染したエネルギーに満ち“東京を面白くしてやろう”という気持ちを持って。

帰国後、原稿書きをしていたが、ついにバンド結成を決心。1978年4月15日にデビューライヴも決まった。この時にバンド名をS-KENと命名。このときはまだバンド名だったがやがて田中唯士をエスケンと呼ぶようになり個人名となる。手作りのスタジオ“S-KENスタジオ”も六本木に5月28日にオープンした。オープニング・パーティーにはS-KENのほかフリクション、リザード、ミラーズ、ミスター・カイト、スピードという“東京ロッカーズ”と呼ばれるバンドが揃った。

この後東京ロッカーズとしてライブを続けた後、東京ローカルなムーブメントを牽引・扇動してきたエスケンは、シーンのドキュメントとしてライヴ・レコーディングを画策する。CBSソニーの高久光雄に連絡、快諾、1979年3月11日新宿ロフトでライヴ・レコーディング、4月21日にオムニバス・ライヴ・アルバム『東京ロッカーズ』がリリースがされる。

私がS-KENを聴いたのはこのアルバムが初めて。他のバンドに比べるとシャープさが足りないな…などと思っていたが、のちのちレゲエ・テイストの「BLACK MACHINE」、ラテン・テイストの「ああ恋人」からヘヴィな「おお揺れ!東京」のメドレー、ともにクセになる味わいに気付くのであった。
そういえばこの時期の発掘音源はミラーズ、ミスター・カイト、リザード、フリクションともに出てるけど、この機会にS-KENも出してくれないかなぁ発掘音源。

ここまでが本書の約半分で、この後1981年には初ソロ作『魔都』リリース、東京ロッカーズのイメージから離れセカンド『ギャング・バスターズ』、書籍『PINHEAD』刊行、1983年ツバキハウスでニポニーズナイト開催、エスケンの新しいバンド・ホットボンボンズ結成、3枚目のアルバム『ジャングル・ダ』リリース、 “異人都市TOKYO”の連載、1986年にはイベント“東京ソイソース”開催、1989年は“カメレオンナイト”開催、1991年“東京ラテン宣言スペシャル”開催、 「東京ラテン宣言」に始まるコンピレーション・アルバムのプロデュース/リリース、続いて“ラガマフィン”、“アシッド・ジャズ”といった盛り上がりつつあるシーンのコンピレーションのリリース、と回想は続く。

エスケンの24歳から44歳までを振り返った約280ページ、読み応えのある回想録。
“トラブルの連続ではあったが失敗談も含めて、未来を生きる音楽人に何かヒントを与えたり、世代の壁を越え感情を分かち合うことが出来るかもしれないという、かすかな思いもある”と書いているように、エスケンは現代の/未来の若者に読まれることを望んでいる。

それにしてもS-KEN・田中唯士は本物・筋金入りのモダーンズ、モダニストだったんだな、と読み終わって感じた。

2018.7.28 追記:日刊ゲンダイDIGITALにエスケンのインタビューが。
“生きる伝説”S-KENインタビュー…パンク老人、かく語りき

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