追悼・遠藤ミチロウ COMMENT ALLEZ-VOUS?「天国の扉」

1996年3月15日、CITTA RECORDINGSからリリースのアルバム『愛と死を見つめて』より。

遠藤ミチロウが2019年4月25日に永眠したとミチロウ公式Twitterで明らかにされた。
日本のオルタナティヴ・ミュージックのリスナー、プレイヤーにとどまらず、アート、文芸など広く影響をあたえた…いや、遠藤ミチロウの作り出す音楽を聴き、パフォーマンスを体験して、ある者は遠藤ミチロウを溺愛し、ある者は嫌悪した、と言った方がいいのかもしれない。
エロもグロもサルも豚もアナーキストもロマンチストもインテリゲンチャーも天プラもニワトリも金メダリストもお母さんも父も、あらゆるコトバという生ゴミと臓物をバラ撒いてきたミチロウが亡くなったと発表されたのは2019年4月30日、翌日の改元祝賀に湧き返る日本への強烈なカウンターパンチだった。

それは偶然だったのだろうか…。共同幻想をブチ壊す事を至上命題としていたミチロウにとって改元一色のこの日に己の死を世に差し出すことは何よりミチロウらしかった、というのはあまりに礼を失するだろうか。

初期のTHE STALINについては以前書いたけどアルバム『STOP JAP』の後、私にとってエポックだったのは、1984年4月にリリースされ当時フォーマットも話題を集めたカセットブックの『ベトナム伝説』だった。「仰げば尊し」のパンクカヴァーや邦楽/洋楽カヴァー(ミチロウが日本語詞をつけた曲もあり)に加え3曲のオリジナル・ソングが収録されていたが、強烈な印象を残したのがオリジナル・ソングでミチロウ曰く “ボブ・ディランに捧げた” という「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」だった。

“日本語ラップを実験してみたんだけど、ディスコ・ビートにどうも合わない。だから演奏も全然ファンクしないようにして、思い切って、ぶっきらぼうな福島弁を使った” とミチロウは語っている。歌詞に出てくる “パンツのはけない留置場は〜” の部分はミチロウが逮捕され留置場にいた時のエピソードを元にしているという。パンク/ヘヴィな演奏にディランの「Subterranean Homesick Blues」並みにコトバを詰め込んだミチロウの語りをのせたハードな曲。

演奏と語りというのはTHE STALINの「アーチスト」や「先天性労働者」からの流れとも言えるが、政治的なスローガン/文言ではなくなり、暴力性&変態性を増した歌詞とハードな演奏の組み合わせはミチロウにとって、ひとつのスタイルを確立した曲だったと思う。

ルースターズの下山淳が参加したMichiro, Get The Help!が1985年にリリースした「オデッセイ・1985・SEX」はファンキーなリズムにミチロウの語りをのせた曲で「お母さん、いい加減〜」の発展形と言えるかな。1989年に結成した定冠詞THE抜きのSTALINも話題だったしCDも聴いたけど、久々に衝撃を受けた歌といえば、ボブ・ディランの曲にミチロウの日本語詞をのせカヴァーした「天国の扉」だった。

原曲のボブ・ディラン「Knockin' On Heaven's Door(邦題:天国への扉)」は、無法者のビリー・ザ・キッドと彼を追う保安官のパット・ギャレットを描いたサム・ペキンバー監督の映画『ビリー・ザ・キッド(原題:Pat Garrett and Billy The Kid)』の同名サウンドトラック盤でディランの12作目のスタジオアルバムに収録されていた曲だ。ビリーを慕う青年エイリアス役でディランも映画に出演している。

ディランの「Knockin' On Heaven's Door」は、息をひきとる間際の保安官が “Mama, take this〜” と母親に呼びかける内容の2分半の短い曲。“ボブ・ディランに捧げた”というミチロウの「お母さん、いい加減〜」も母親に語りかける言葉で始まっているのは、ディランの「Knockin' On Heaven's Door」を参考にしているのかな。「Knockin' On Heaven's Door」は色んなアーティストがカヴァーしていて、例えば、ミチロウが好きだったというテレヴィジョンはライヴでカヴァーしていたし、ガンズ・アンド・ローゼズのカヴァーは映画『デイズ・オブ・サンダー』に使われ、シングルカットもされて広く聴かれていた。

ミチロウの「天国の扉」だが、もともとは遠藤ミチロウ名義で1993年にカセットのみでリリースした『死目祟目』に収録されていた。ナタリーでの吉田豪とのインタビュー 
THE抜きのSTALIN後、ミチロウがソロでやってゆくことを決意させた曲と語っていた。
“「天国の扉」はスターリンが最後の頃にできて、あれからですよね、1人で歌おうかなと思い始めたのは。あの曲ができてなかったらそうならなかったです ” 私がこの曲を聴いたのは、1995年にミチロウがナポレオン山岸らと結成したバンド、コマンタレヴ ?の演奏したヴァージョンを収録したライヴアルバム『愛と死を見つめて』を聴いた時だった。

エレクトリックギターのフィードバック音で曲が始まり、ミチロウの弾くアコースティック・ギターとゲストの伊藤ミキオのキーボードが続き、バンド全体の演奏が始まると、ミチロウの楽器のように鳴る、まるでフィードバックノイズのような咆哮が響き渡る。ディランの元曲は、死を予感した保安官が僕は天国の扉をノックしているようだ、と死に直面した感情を表現していたが、ミチロウの日本語詞はさらに激しい内容のものになり、おまえはどういう死を迎えるんだ?と問いかけ、つくりものと錯覚だけの自分がおまえと行く天国だけに生を感じ、かつてないヒロシマのイメージを描き、全てを食い尽くした神様の住む天国の扉を叩き壊そうとする。

それは平穏な天国へ入りたいという願いじゃない。
壊れない硬い扉を何度も何度も叩き割って、天国にいる“ 死んだ奴ら” を踊らせるような生と命を見せつけてやろうとする、ファック!という激しい怒りだ、と思う。ミチロウの壮絶な言葉、バンドのテンションの高い演奏は12分という長尺の曲になり、聴くものの感情を激しく揺さぶり、もはやカヴァーを超えて遠藤ミチロウを代表する楽曲となった。

ミチロウ自身も“天国の扉という曲の存在は本当にデカイ”と語っていた。
私もこの曲に痺れ、遅まきながらミチロウのそれまでの楽曲、アルバム、ビデオなんかを改めて聴いたり見たりしてその凄さを再度確認したのだった。

ミチロウはアコースティック・ソロで全国を巡るかたわら、Notalin'sやTocuch-Me、M.J.Qなどのユニットを結成し活動、スターリン名義でも1995年、2001年、2010年と幾度かライヴを行い、2011年3月11日の東日本大震災以降、地震、津波のみならず原発事故で大きな被害を受け、
その影響が今も続いているミチロウの故郷、福島県を振り返りプロジェクトFUKUSHIMA!の中心メンバーとなり活動、THE STALIN Z、THE STALIN 246としてもライヴを行った。ミチロウはプロジェクトFUKUSHIMA!の活動を通じて盆踊りや民謡が人々に与えてきた影響力・魅力に気付く。

2014年には「原発ブルース」や「NAMIE(浪江)」、「オレの周りは」、「放射能の海」など福島の状況やミチロウの思いを歌に込めた傑作ソロアルバム『FUKUSHIMA』をリリース、『FUKUSHIMA』には民謡にミチロウが歌詞を加えた「新・新相馬音頭」や、ミチロウ作詞・作曲の音頭「志田名音頭ドドスコ」が収録されているが、これが発展して石塚俊明、山本久土と羊歯明神(シダミョウジン)を結成。「新・新相馬音頭」の他、やはり民謡にミチロウが歌詞を加えた「フクシマ・ソーラン節」や「ドンパン節2015」などを収録したアルバムをリリースし新境地を聴かせてくれた。

2001年にソフトマジックから出版された『遠藤ミチロウ全歌詞集 1980-2000』でミチロウはあとがきにこう書いている。
“ 昔、アリとキリギリスの童話を読んで、キリギリスにあこがれたのは何故かが、この現在を予感していたのかも知れない。働かないで唄っている、ろくでもないやつ、ギリギリス。でも、キリギリスのうたは、働き者のアリの心をなぐさめることはなかったんだろうか?と問い返してみたい気もする ”

今、多くの人々がミチロウへの感謝の言葉をネット上に書き表している。
ミチロウ、キリギリスのうたはたくさんの人々の心に突き刺さり、漂白された時代の中にあなたが残した数々の染みはいつまでも消えることはないでしょう。

参考文献:雑誌「宝島」1984年4月号、『遠藤ミチロウ全歌詞集 1980-2000』(2001年ソフトマジック刊)、地引雄一編『EATER '90s』(2012年K&Bパブリッシャーズ刊)、『日本パンク・ロッカー列伝』(2015年シンコーミュージック刊)、ボックスセット『飢餓々々帰郷』ブックレット

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