トレイシー・ソーン著・浅倉卓弥訳『安アパートのディスコクイーン:トレイシー・ソーン自伝』
トレイシー・ソーンの自伝が刊行された。
スターン・ボップス(Stern Bops)というバンドの紅一点リズムギタリストから始まり、マリン・ガールズ、ソロ・アーティスト、エヴリシング・バット・ザ・ガールと進んだミュージシャンとしての経歴はもちろん、プライベートな事柄も出生から家庭環境、ベン・ワットとのエピソード、子供達の事なども詳しく書かれている。それも終始シニカルでビターな筆致で、捻れたユーモアがたっぷり。少しだけかいつまんで紹介すると、
トレイシーが “自分が真にパンクの子供であった” とこの自伝に書いている通り1977年6月にトレイシーはパンクに目覚めた。いわく “危険分子を気取っては周囲を威嚇してばかりいるようなものに心底惹かれた” その時を境に、いい子ちゃんだったトレイシーは、髪の毛をスパイクカットにし、両親は我が子の部屋から聴こえてくる音楽に恐怖した。
ジャムにストラングラーズ、アドヴァーツ、ブームタウン・ラッツ、ミンク・デヴィル、そしてピストルズ、クラッシュ…。通販でクラッシュやエックス・レイ・スペックスなどの7inchシングルを手に入れた。
トレイシーはこの時の両親との軋轢をこう書いている。
“ 今から三十年余り前というこの時代、十代の若者達とその両親達との間における世代間ギャップというものは現在のそれよりよほど大きかったのだ。この隔たりは、多分この時期を頂点にしてじわじわと縮まっているはずだ。だから、今日では子供と親が一緒のレコードを好きでいたり、あるいは親子が連れ立ってグラストンベリーのロックフェスへ嬉々として足を運んだりすることは、最早ありふれた光景とさえなっている ”
今の時代、たかがパンク(ロック)を聴いたり観たりしているだけで親子の溝が深まり断絶が起こる、などということはヨーロッパやアメリカ、それに日本でも無いと思う。
パンク以後、ロックンロールやソウル、ジャズに限らず、ワールドミュージック、非音楽的なノイズ、アヴァンギャルドを含め様々な表現方法を積極的に取り入れ、異種交配しポップに昇華させる、という試みを繰り返し、作り上げ、それを聴いていた若者達が成長し親になれば、その子供が何を聴こうがほとんど許容できる範囲となるし、もはやパンクという音楽を聴いたり演奏することなどなんの反抗の材料にもならない。むしろそれは親と子供の関係を親密に深めるものに変わっていると言えるかも知れない。
1978年1月ピストルズ解散、ポスト・パンク、ニューウェイヴの始まり。
トレイシーが観に行ったスージー&ザ・バンシーズ、ギャング・オブ・フォー、バニーメン、キュアー、プリテンダーズといったバンドのライヴチケットの半券が掲載されている。
それにトレイシーは1978年4月30日(日曜日)にロック・アゲインスト・レイシズム、反ナチ同盟の集会に出かけ、セントラル・ロンドンのトラファルガー広場で演説に耳を傾けてからヴィクトリア・パークのあるイースト・ロンドンのハックニーまで行進し、ヴィクトリア・パークで行われたクラッシュが出演した野外コンサートを観ている。映画『ルード・ボーイ』でクラッシュのライヴ映像が観られる、あの大観衆の中にトレイシーはいたのだ。
パンクが勃興してから広がったDo It Yourself精神により多く作られるようになったのが自主制作カセットテープだった。トレイシーもスターン・ボップスで地元バンドを集めたコンピレーションカセット、マリン・ガールズでは結成から3ヶ月で完全DIYの12曲入りカセット『ア・デイ・バイ・ザ・シー』を作り上げ50本コピーし売り出したり、パットリック・バーミンガムのプロデュースでカセット・アルバム『ビーチ・パーティー』を録音、パットのレーベルからリリースしている。
1983年7月にリリースされたエヴリシング・バット・ザ・ガールのファースト・シングル「Night And Day c/w Feeling Dizzy / On My Mind」を気に入ったポール・ウェラーが ライヴで共演、さらにスタイル・カウンシルのファーストアルバム『カフェ・ブリュ』収録の「Paris Match」にトレイシーのヴォーカルとベンのギターで参加した。トレイシーのソロ・アルバム『ア・ディスタント・ショア(邦題:遠い渚)』が1982年8月にリリース。トレイシーの歌とギターだけで作られたシンプルなサウンドは、
“ 感情と知性の両面とで、しっかりと耳を傾けることを要求してくる種類のレコード ”(メロディーメイカー)、
“ ピート・シェリーとバズコックスが撒いた種子の収穫 ”(NME)
と評された。ジャケットの素朴で味のあるイラストはマリン・ガールズのジェーン・フォックスによるもの。
エヴリシング・バット・ザ・ガールのファーストアルバム『エデン』が1984年6月にリリースされ、英最高位14位を記録した。
“ 基本的に私たちの音楽は、ちょっとだけインディーズっぽく、同時にちょっとだけボサノヴァっぽかった ”とトレイシーが書いている通りなのだが、トレイシーのフェミニズムへの関心やパンクの持っていた政治性、左翼的な理想主義、過度な商業主義の拒絶などを抱いて音楽を製作し活動していたから、歌われた内容に着目もせず、単に耳障りだけでBGMだとかイージーリスニング的だという物言いにトレイシーは激しく噛み付いていた。
トレイシーはこの頃の自分について、“ 音はアストラッド・ジルベルトのようなのに本人はギャング・オブ・フォーのメンバーみたい ”だった、と書いている。
ザ・スミス(モリッシー)への傾倒、
非ロックンロール的なダスティ・スプリングスフィールドやシャングリラスからの影響、
自分たちの思い通りにいかずレコード会社の意向を大幅に取り入れたもの、
アメリカの一流スタジオ・ミュージシャンが作り上げたAORなサウンド、
ドラムンベース・ハウス/リミックス・カルチャーからの影響、
とアルバム毎に書かれたエピソードも興味深い。
ロッド・スチュワートで知られるクレイジー・ホースの「I Don't Want To Talk About It」をカヴァーをした時、1977年にスチュワートの同曲がセックス・ピストルズの「God Save The Queen」の1位獲得を阻止したシングルだということで、この曲を取り上げるのを躊躇ったと言う事、
アルバム『ランゲージ・オブ・ラヴ』をトミー・リビューマのプロデュースで録音している時にトレイシーが言い放ったビートルズに関する発言もまたパンクなのであった。
日本の公演に関する手痛い感想もある。