イヌイジュン著『中央線は今日もまっすぐか? オレと遠藤ミチロウのザ・スターリン生活40年』
ザ・スターリンのアルバム『trash』再発とほぼ同じタイミングで刊行されたイヌイジュンによるザ・スターリンと遠藤ミチロウ回顧録。
この本は、東京・国立市にあったぶどう園のアパートのシーンから始まる。
国立にあったぶどう園アパートについては、これまでに読んだことがあった。たとえば、元ミュートビートでDUBトランペッターのこだま和文は、 “ 国立市の西、当時「ぶどう園」と呼ばれていた一画があった。ぶどう畑を囲むように百軒ほどのバラック風のアパートがあった。売れないミュージシャンや画学生、ヒッピー風の若者たちが住んでいた、ぼくも、その中の一人だった。忌野さん縁の地でもある。” (こだま和文著『空にあおいで』K&Bパブリッシャーズ刊より)
また、ガセネタのベーシストだった大里俊晴は、 “ 一橋大学の裏手にある、ブドー畑とか、ミュージシャン長屋、というと、知る人は知っているが、何十何百と知れぬミュージシャン、ミュージシャンの卵、自称ミュージシャン、その他モロモロの巣窟だ。 この、年間家賃滞納額が数百万とも噂される大集合住宅地に(中略)くだんのドラマー、乾の部屋を探し続けていた。”(大里俊晴著「ガセネタの荒野」月曜社刊より)
ここでガセネタのメンバー(大里、浜野純、山崎春美)3人が訪ねて行ったのがイヌイジュン(乾純)だった。
イヌイはガセネタのドラマーになり、1度だけガセネタとしてライヴをおこなう。イヌイが遠藤ミチロウと出会う以前1978年のことだ。そして1979年春、イヌイは同じくぶどう園に住む遠藤ミチロウに声をかけた 。「パンク、好きなん?」
イヌイジュンはドラマーとして、ザ・スターリン以前のコケシドール〜バラシ〜自閉体から遠藤ミチロウと音楽活動を共にしていた。
コケシドール(1979年4月〜6月)〜バラシ(1979年7月〜10月):Vo&G・遠藤ミチロウ、D・イヌイジュン、B・辻村信也
自閉体(1979年10月〜1980年2月):Vo・遠藤ミチロウ、D・イヌイジュン、G・尾形テルヤ、B・立山ヒロキ
尾形と立山が脱退した1980年初頭、ミラーズ のヒゴ・ヒロシがミチロウとイヌイの写真を撮りたいと連絡があり、吉祥寺マイナーがあったビルの屋上で撮影。この本の巻頭にこの時撮影された7枚の写真が掲載されている。ミチロウ29歳、イヌイ20歳の貴重な素顔。
メンバー募集によりG・金子あつし加入、1980年6月ザ・スターリン結成、Vo&B・遠藤ミチロウ、D・イヌイジュン、G・金子あつし
その年の夏、イヌイが(ミチロウ説あり)、杉山シンタロウに「バンドやんねえ?パンク」と声をかけスカウト。楽器未経験もルックス重視でベーシストとして加入。ザ・スターリンの初期メンバーが揃い、その後ライヴ、レコーディングなどのエピソードが記されている。
エピソードはライヴやツアー先、レコーディング、その前後での会話や出来事など様々で、どれも当事者ならではの内容。これまでミチロウがインタビューなどで語っていた逸話も改めてイヌイ視点で時にユーモラスに描かれていることもあり興味深く読める。ザ・スターリンの初期だから「過激な」ステージの模様が記されてはいるが、よくあるパンク・ハードコアの回顧話につきもののオフ・ステージでの武勇伝はほとんど出てこない。まぁどこまで書くか/書かないか、というのはあるだろうけど。
石井聰亙監督映画『爆裂都市・バーストシティ』撮影時のエピソードもチラリ。撮影現場は映画以上に爆裂していた…らしい。
それから、1982年の春頃にミチロウとイヌイがBOØWYのライヴを見に行ったときのエピソードには驚いたなぁ。まだBOØWYがデビューアルバム『モラル』をリリースして間もない頃だ。だけど “ 滅びゆく時代へのレクイエム ” のことを思えばありえないことでもない…か。
1982年6月12日綾瀬・菩提樹ホールのライヴを最後にイヌイジュンはザ・スターリンを脱退。メジャーからのアルバム『STOP JAP』リリース直前だった。
1983年9月17日京都大学西部講堂におけるザ・スターリンと非常階段の合体ユニット、スター階段のライヴにミチロウに呼ばれてイヌイはドラマーとして参加する。ギターには尾形テルヤが参加した。しかし、このスター階段のライヴを最後にベースの杉山シンタロウが脱退してしまう。ここで、もはやザ・スターリンに残っているのはミチロウただひとりとなってしまった。
ミチロウはイヌイジュンを呼び戻し、尾形テルヤをベース、ウィラードのJune Bleedをギターに加えてザ・スターリンを再始動させる。
1984年3月にライヴ活動を再開するが、ひと月でギターのJune Bleedが脱退、代わりに北田昌弘(ex-INU)が加入、5月からライヴを再開するがこれもひと月で北田と尾形が脱退してしまう。 残されたオリジナル・メンバー2人、音楽的な方向としてミチロウはもともと好んでいたザ・ドアーズやパティ・スミス、イヌイはPIL的な方向性を目指し、当時チャンス・オペレーションのヒゴ・ヒロシ(ex-ミラーズ )がベース、当時アレルギーの小野昌之がギターで加入した。いずれもバンド掛け持ちだった。
1984年8月からライヴを再開、11月にはこのメンバーで作り上げたスタジオ・アルバム『Fish Inn』をBQレコードよりリリース、ファンクを意識したリズムと小野のギター・カッティングは、所謂ポストパンク的な作品になったと思う。アルバム発売記念ツアーを1984年末まで行うものの、ミチロウとイヌイの音楽的嗜好・方向の差異は大きいことがあきらかになり、ミチロウは再度オリジナル・メンバーであるイヌイと別れるならばザ・スターリンを継続する必要はないと考え、1985年2月21日、調布・大映撮影所におけるライヴを最後にザ・スターリンは解散した。
このあたりでイヌイは過去のミチロウの「うた」に関するインタビューを引用、当時の自身の楽曲についての考えと共にザ・スターリンの終焉について考察している。ザ・スターリン解散から2020年まで35年。その間のイヌイと遠藤ミチロウとの会話、メール、何回かのライヴでの対バンで感じたこと等のエピソード、ミチロウ逝去後にイヌイが感じたこと、行動・活動したことが綴られている。なかでもイヌイが宮沢正一を訪ねて遠藤ミチロウを捉え直してゆく会話はこの本のハイライトだろう。
ミチロウ没後、トリビュート的にイヌイが始めたTHE STALIN X(「Fish Inn」の曲中心)、THE STALIN Y(パンクナンバー中心)は継続的に活動、イヌイはここではじめてバンマスとしてのミチロウに思いを馳せるのであった。
この回顧録の出版、ザ・スターリン(X及びY)を名乗ってのバンド活動やCD発売等、イヌイの活動についてはいろいろ言われているが、イヌイにとってはこの本の中でも引用をしている、かつてミチロウが “ スターリン ” について記していたことが背景のひとつとしてあるのではないか。
“ バンド幻想なんてのは、やっぱりビートルズでとっくに終わっているんだ。
スターリンはバンドなんかじゃない。
メディアだ。
メディアとしての物体X。
だから、スターリンをパンクとか、ロックとか、音楽とかいうワクでくくってもムダってい
だから、スターリンをパンクとか、ロックとか、音楽とかいうワクでくくってもムダってい
うこと。
手あたりしだいにくっつけては引きずり込むハエ取り紙活動はますます混然としていくだろう。
今日からオレはスターリンだ、と思ったらあんたはスターリンだ。
それだけのこと。”
手あたりしだいにくっつけては引きずり込むハエ取り紙活動はますます混然としていくだろう。
今日からオレはスターリンだ、と思ったらあんたはスターリンだ。
それだけのこと。”
(宝島カセット・ブック 遠藤ミチロウ『ベトナム伝説』ブックレットより)
同じタイミングで発売となった、幻と言われ続け再発不可能と言われていたアルバム『trash』再発について言及があるかな、と思ったがなかった。