デボラ・ハリー著・浅倉卓弥訳『フェィス・イット:デボラ・ハリー自伝』
ブロンディのヴォーカリスト、デビー・ハリーの自伝の邦訳が刊行された。原書はDey Street Booksから2019年10月に出されていたようだ。
邦訳出版元はele-king books、訳者は浅倉卓弥と少し前に読んだ2冊のトレイシー・ソーン自伝と同様。ちなみにトレイシー・ソーンは自伝の中で、“ 自分が真にパンクの子供であった ” と書いていたが、1945年生まれのデビー・ハリーは、この自伝の5章めのタイトルを、“ 生まれつきパンク(Born To Be Punk) ” としている。
デビーは1945年7月1日フロリダに生まれてすぐニュージャージーへ転居、短大卒業後にニューヨークへ渡り、1960年代の中頃にチャーリー・ナッシングのバンド、ファースト・ナショナル・ユニフレニック・チャーチ・アンド・ザ・バンク(The First Uniphrenic Church and Bank Band)に参加し音楽活動を開始したが、アルバムをリリースする前にデビーは脱退している。
その後ポール・クラインに誘われザ・ウィンド・イン・ザ・ウィロウズにコーラスで参加、1968年に同名アルバムをリリースするがデビーはグループを脱退している。
この後レストラン/ナイトクラブのマックス・カンザス・シティでウェイトレスとして働いたり、プレイボーイ・クラブに勤めるが、ニューヨークに来て5年になる頃、一度ニュージャージーに戻り美容室の仕事についている。しかしニューヨークへは、ニューヨーク・ドールズなどのライヴに通っていて、そのドールズをマックスへ観に行った時に、エルダ・ジェンタイルと知り合い、ロージエンヌ・ロスと女性3人のトリオを組もうということになった。女性3人のリードシンガーに男性陣のバックバンド、スティレットーズ(The Stilettoes)を結成した。
練習を重ねるうちデビーはニューヨークに引っ越した。やがてロージエンヌが辞め、代わりにアマンダ・ジョーンズが加入。バックバンドのメンバーは流動的だったようだ。曲はカヴァーと数曲のオリジナルを演奏していた。スティレットーズのライヴ後デビーは楽屋でクリス・シュタイン(以前はクリス・スタインと表記されていた)と出会い、数日後にクリスはバックバンドのメンバーとなった。これが後々まで続くデビー・ハリーとクリス・シュタインの音楽上の関わりの原点だ。
スティレットーズはライヴを重ねたが、音楽的意見の相違でデビーとクリスはグループを離れる。同時にベースのフレッド・スミスとドラムのビリー・オコナーも離れたため、このメンツで新たなバンドを始める。バンド名はエンジェルス&ザ・スネークス。やがてバンド名はブロンディ&バンザイ・ベイビーズになった。初期には女性2人がコーラスとして参加。演奏する曲はカヴァーだったがクリスとデビーはオリジナルも作り始め、やがてバンド名をブロンディと名乗るようになった。
パティ・スミスとラモーンズがレコーディング契約を獲得、複数のレーベルがテレヴィジョンに注目していた頃、ブロンディからドラムのビリー・オコナーがバンドを去り、オーディションによりクレム・パークが加入。ベーシストのフレッド・スミスがテレヴィジョンに引き抜かれ、クレム・パークの友人ゲイリー・ヴァレンタインが加入、1975年にはこの4人のメンバーでアラン・ベットロックによりデモをレコーディングしている。レコーディングされたのは5曲、
「Out In The Streets」(ザ・シャングリラスのカヴァー)
「Platinum Blonde」
「The Thin LIne」
「Puerto Rico」
「Once I Had A Love」(元のタイルは「The Disco Song」で後の「Heart of Glass」)
このデモは「Once I Had A Love」以外の4曲が、1978年頃にメンバーの許可なくEP盤としてリリースされている。オフシャルとしては1994年にリリースされたコンピレーション『プラチナ・コレクション』に5曲とも初収録された。デモ録音の後キーボードにジミー・デストリが加入、インスタント・レコード/プライベート・ストックと契約、デビュー・シングル、ファーストアルバムの制作に着手する。
ブロンディのレコード・デビュー直前までを簡単に紹介したが、デビーはようやくCBGBやMax'sに出演するようになったブロンディの極初期を“ 初期のブロンディというのは燃え盛るあらゆる感情の嵐みたいなもので、そこに楽しさみたいなものを見つけ出すことは、少なくても私にとっては今なお非常に困難 ”として、自分たちが当時のニューヨークで繰り広げたタフでハードなストリート・ロックンロール・ライフを振り返っている。
事故、火災、犯罪…セックス、ドラッグ…けれどもデビーはそれらの出来事をドライな筆致で書いている。そしてロックンロール。
ブロンディはこの後、様々な出来事を掻い潜りながら、実力を身につけ世界的な人気を獲得しヒット曲を連発する超メジャーなバンドへと成長していく。また、デビーは単独で映画出演するようになり女優としてのキャリアを築いていく。
この自伝を読んでいた思ったのは自伝の中に登場する個人名、グループ名、作品名が多く多彩だな、ということだ。ミュージシャン、プロデューサー、バンド、デザイナー、俳優、映画監督、コメディアン、ドラァグクイーン、プロレスラー、カメラマン、イラストレーター、スタイリスト、画家、ダンサー、小説家、雑誌編集者…。その彼・彼女らの恋人、家族、友人たち…。彼・彼女らが作った作品たち。
デビーは自身の芸術的興味について常に多方向にアンテナを張り観察、吸収し、当時のニューヨークで蠢く様々な人々や、デビーが赴く先々で出会う人々と関わり、広く人脈をも広げ、デビーの内面を豊かにし見識を広げていたということだろう。それは例えば自伝を書く為にその時々の記憶を掘り起こすことについて,
“ 所詮『羅生門』を再訪するようなものにしかならない ”
こう記していることからも感じるとることができる。
そしてブロンディがニューヨークのアンダーグラウンド・シーンから世界的なヒットを有するメジャーなバンドになったことについて、
“ 誰も彼もが我こそが私たちのことを見出し、スターに押し上げ、暴れ回る野蛮なガキどもをちゃんとスタジオで仕事ができるようにまで仕込んだのだといった栄誉を自分の物にする ”
いくつかの曲のエピソードを紹介。
東京に滞在した時にタクシーの中での出来事から「Hanging On The Telophone」をカヴァーすることにしたこと、
大ヒット曲「Call Me」の歌詞、最初のライン “ Colour me your colour, baby Colour me your car ”(私をあなたの色に染めて/あなたの車の色に)が突如頭に降りてきたこと。
この歌詞、私が持ってる日本盤CDに付属している歌詞だと“ Colour me your colour, baby Call on me your call ”(私をあなたの色に塗りかえて/会いに来て欲しい)になっている。
これは、あんまりじゃないの?訳詞はともかく、“ Colour me your car ” のほうがイメージが鮮明だし、カッコ良さが全然違うよー。何十年も間違った歌詞を読んでたのか。
自伝には様々な時代のデビーの写真が掲載されているが、ファンが送ってくれたデビーの似顔絵も多数掲載されている。 それもデビーが自伝のタイトルを『Face It』にした理由のひとつだという。