モリッシー著・上村彰子訳 『モリッシー自伝』

2020年7月17日 イースト・プレスより出版。

モリッシーの自伝がついに邦訳刊行。原書はPenguin Classicsから2013年10月に出されていた。
ジョニー・マーの自伝(邦訳は2017年)を読んだ時、モリッシーの自伝は無いのかな?と調べたことがあったが、その時はモリッシーの自伝の邦訳は認められなかった、みたいなことをどこかで読んだ。なので邦訳が出版されることを知った時は、モリッシーの言葉でザ・スミス結成〜解散の真実を知ることができるんだろなーと、非常に期待は高まったのだが…。
もちろんそんな簡単な単純なお気楽な事柄ではなかった…。

邦訳はハードカヴァー、448ページ、章立ては無し、重い…。
自伝はモリッシーの幼年期から始まるが、関わり合う人間への、学校への、先生への、友人への、地域への、家族への延々と続く恨み節。小学校生活は “ 人を不幸にさせる力を持っており、その力だけがこの小学校が発するメッセージだった ” と記されている。公立小学校を11歳で卒業すると、当時のイギリスでおこなわれていた11歳にして学力により進む道を選別する「イレブン・プラス」という試験を受ける。このモリッシー自伝では、
成績上位25%が大学進学を前提とした中等教育機関「グラマースクール」へ進学、
その下の成績の子供は技術学校の「テクニカルスクール」へ、
さらに下位の成績の子供は「セカンダリーモダンスクール」という手に職をつけることを目指す学校に入る、と説明がある。

イギリスのミュージシャンの生い立ちを読んでいるとよく目にするこの「イレブン・プラス」試験。ジョニー・マーの自伝にも「イレブン・プラス」についての記述がある。マーはイレブン・プラスに合格、グラマースクールへ進学しており、ザ・スミスのベーシスト、アンディ・ルークもマーと同じ学校だった。マーは入学時のことを “ 中流者階級や上流者階級の子と一緒になるのは生まれて初めてだ ”と記している。

モリッシーはこの「イレブン・プラス」試験に通らなかった。
“ 将来は不安定。未来は運命づけられ (中略)より暗い場所に行かなくてはならなくなった” と絶望し、中等教育卒業に際しては “ セント・メリーズ(モリッシーの通った中等校)での日々は、私に永遠にダメージを与えた” と記している。

モリッシーの音楽の興味はT-REXからデヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、ルー・リード、ストゥージズ、ニューヨーク・ドールズ、パティ・スミス、ラモーンズへと移っていったが、モリッシーは思っていた。“ 無職の私の人生は苦しかった。17にして、自分の感情で疲れ切ってしまっていた(中略)何年もの間、月日だけが流れた ”
モリッシーはレコード店で働き、内閣歳入庁でファイル係として働き、病院の短期雇用で働いた。友人との関係に悩んでいた。そして3回目のセックス・ピストルズのマンチェスター公演で「もうサウンドチェックなんて見たくない。自分がサンドチェックする側でなければ」と思った。時に1976年12月6日、マンチェスター・エレクトリックサーカスで。

ヴァージン・レコードの壁に貼られたメンバー募集告知を見てギタリストのビリー・ダフィに出会う。ビリーとモリッシーは、ザ・ノーズブリーズのリズム隊とマンチェスター大学でライヴをおこなった(バンド名はザ・ノーズブリーズではなかったという)。その後、ビリーはシアター・オブ・ヘイトへ移ってしまうが、ビリーはジョニー・マーというギタリストの名前を置き土産にしてくれた。

そしてマーはモリッシーの家を訪問し、ザ・スミスが始動するのだ。ここでジョニー・マーの恋人、アンジーについて、“ アンジーには勇気があって偏見がなく、政治的思想も強くなかった。ミュージシャンの彼女にありがちな、恋路に邪魔なバンドを壊そうとする「ガールフレンド・シンドローム」に陥ることもなかった。いつも理知的で手助けしてくれ、攻撃の盾となる覚悟もできていた。名誉に値する根性を持ち、平凡さを凌駕していた ” と称えているのは特筆に値するだろう。

ようやくザ・スミスの話題になった、と思ったら、あっというまに(60ページほどで)ジョニー・マー脱退、ザ・スミス解散、最初のソロ・シングル「Suedehead」の話題に。その間もほぼバンド関係者やメディアへの呪詛。この後はモリッシーのソロ活動について、デヴィッド・ボウイとの交流や、アルバム『ユア・アーセナル』をプロデュースをしたミック・ロンソン、 デュエットをしたスージー・スーの話題等々に触れている。
そして、あの裁判だ。

1990年代半ばザ・スミスのドラマー、マイク・ジョイスがモリッシーとマーに対して、“ ザ・スミスの名の下で創造された完全にすべてのものから25パーセントの取り分を要求 ” する訴訟を起こした。“ ジョイスは全キャリアを通じて、そしてその後も10パーセントを受け入れていた ” にもかかわらず。イギリスのパートナーシップ法によりジョイスは勝訴、過去の全収益の25パーセントをジョイスに分配、モリッシーとマーはジョイスの裁判費用の支払いを命じられ、さらにジョイスは名義がモリッシーと仮定してモリッシーの母の住む家、姉の住む家を差し押さえようとまでした。モリッシーはこの自伝で約40ページをジョイスとの訴訟のエピソードに割いており、このエピソードの終わりにはこう記している。
“ ジョイスはザ・スミスを殺した ”

疲弊したモリッシーはイギリスを離れ、アメリカ・ロサンジェルスのウエスト・ハリウッドに家を購入し移り住んだ。サンセット・ブルーヴァードに面したノース・スウィッツァー・アヴェニュー(North Sweetzer Ave.)にあるその家は映画好きのモリッシーに相応しい。
“ ロンドンの黒板のような空 ” ではなく“ 毎朝間違いなく寝室の窓に日光が射し込む ” ロサンジェルスの天候は、モリッシーをゆったりと、伸び伸びとした気持ちにさせ、堅く閉ざしていた心を開いていったという。

長い時間が過ぎ7年ぶりのオリジナル・アルバム『ユー・アー・ザ・クワーリー』をロサンゼルスで録音し2004年にリリース。同年ニューヨーク・ドールズの再結成に尽力し、ヨハンセン+シルヴェイン+ケインのオリジナルメンバーに、ギターにスティーヴ・コンテ、ドラムにゲイリー・パウエル(ザ・リバティーンズ)を加え、モリッシー がキュレーターを務めたメルトダウン・フェスティヴァルに出演した。ここからのモリッシーはまるで日記を書くようにワールドワイドな活躍とその人気ぶりを綴っている。

イギリス、アメリカ、スウェーデン、デンマーク、フランス、ハンガリー、オーストリア、ギリシャ、カナダ、トルコ、メキシコ…各地の熱狂的なオーディエンスを紹介する。
例えばこんな記述がある。
カリフォルニアのフレズノ・レインボー・ボールルームに集うフィジカルでエモーショナルなファンに対してモリッシーは、“ モリッシーの新しいオーディエンスは、白人ではない。少なくともここでは。彼らはザ・スミスの青白い空想家たちの反対側に、熱狂的に位置している ” と称賛する。そして ”お高くとまった小心者たちには、私の新しいラテン系の心は通じない ” と、日焼けもせず蒼白い顔をしたザ・スミスから逃れられないリスナーたち(私を含む)を一蹴した。

まぁ私のようにザ・スミスに囚われているリスナーを完全に置き去りにしている、という事を改めて思い知らされた自伝であった。アメリカ移住後の解放されたようなモリッシーの記述は、読んでいるこちらも心が晴れるよう。それほどモリッシーのソロ活動を追いかけていない私でも面白く読める内容だった。いくつかオカルトっぽいエピソードあり。

モリッシーはソロになって何度か来日しているが、自伝に日本に関する記載はほぼない、これくらいかな…。
ザ・スミスのデビュー・アルバムの日本盤にサンディー・ショウの「Hand In Glove」が入っていたことに、モリッシーがうんざりして大量に吐いたって書いてあったけど、確かにあった。1984年9月25日にリリースされた、徳間ジャパン35JC-102。当時このアルバム世界初CD化で、ボーナストラック4曲のうちの1曲がサンディー・ショウの「Hand In Glove」。それも別ミックスらしい。聴いてみたいな…。

この自伝に翻訳者の「訳者あとがき」はないが、翻訳者・上村彰子のブログ「Action is my middle name ~かいなってぃーのMorrisseyブログ」に、
『モリッシー自伝』発売~「訳者あとがき」に代えて
を読むことができる。やはりこの内容は…。

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