My Wandering MUSIC History Vol.91 THE ROOSTERZ『SOS』
ザ・ルースターズの結成者であり、リーターシップをとり、バンドを牽引してきた大江慎也が1985年3月15日東横劇場のライヴを最後に脱退した。続けて3月29日筑波29barのライヴを最後にキーボードの安藤広一が脱退してしまう。安藤が3月末をもって脱退(引退)するということは、バンド内では1984年末に決まっていたということだ。しかし大江慎也の脱退は突然のことだった。
アルバム『φPHY』制作時から大江は再び体調を崩し、1984年末〜1985年初頭にかけて不安定なまま活動を続けてきた。私が大江在籍時ルースターズのライヴを観たのは1984年12月31日シアターアプルが最後だが、2004年リリースのボックスセット『Virus Security』のDVD-1に収録されている石井聰亙プライベート8ミリフィルムに1985年1月、新宿ロフトのライヴから「Do The Boogie」の一部、DVD-4に収録されている1985年2月14日高知グリーンホールのライヴを観ることができる。立ちすくみ、うつむいて伏し目がちに、口元をときおり歪め、唇を噛み締めながら歌う大江慎也が映し出されているが、その姿は痛々しく、前年とはあきらかに体調が悪化しているのがわかる。
大江脱退当時の様子を後に振り返ったインタビューや書籍などから、大江、花田、下山の発言を抜粋してみよう(一部編集した)。
雑誌『宝島 1988年8月号』より、取材・文:市川清師
3月安藤脱退、そして4月大江が脱退する。
花田「気持ちとしては元気でまた戻ってきてほしいというのがありました。友達みたいな意味で。大江がどういう曲作ろうが、人間自体が俺は好きでしたから」
下山「俺は(大江は)プレイヤーってことでカリスマであってほしかったのね。コンサートでも、あれじゃ演奏でもなんでもないから。とにかくがまんできなかったのは、みんな大江の顔しかみてないのね。俺たちが何をしても全然反応がないわけよ」
雑誌『レコード・コレクターズ 1995年5月号』より、聞き手:岡野詩野
『φ』を最後に大江が休養という形でバンドを離れてしまう。正式に脱退表明が発表されたのは85年3月のことだった。
花田「実は(大江は)そのうち帰ってくるだろう、くらいの気持ちでいたんですよ…。先までライヴの予定も入ってたりしてて、やめるとか解散するとかってことを考えてる余裕もなかったし」
『ROCKIN' ON JAPAN FILE VOL.2』[1989年] より、インタビュアー:市川哲史
市川:で、彼(大江)はやめちゃうわけですか。
下山「やめちゃうっていうか、自分から入院しちゃったから。やっぱり疲れもあったからさあ、自分から入院したいって言ってきたら、これはしょうがないなと」
市川:それはもう、事実上の脱退みたいな。
下山「すごく残念だったね、みんな覚悟決めてたよ。まぁ、それまでの2ヶ月(『φ』の)レコーディングする間でもわかってたしね」
ビデオ・大江慎也『A TRUE STORY』ブックレット [1989年]より、インタビュアー:今井智子
今井:ルースターズを抜けようって思った決定的な何かっていうのは…。
大江「それは、単純に体力的なことです。体力、というか、ぼく精神的にまいっちゃったんですよね。バンド存続も含めて何ていうのか精神的にまいっちゃって。色んなものがこう…自分に押し寄せてくる、みたいな感じになって、病気になってやめたっていう、ただ単純にそれだけなんですよね」
大江慎也・小松崎武郎共著『words for a book』[2005年]より
大江「『φ』の後、春にまた倒れて精神科に入院することになったんだ。バンドのメンバーがお見舞いに来てくれたのは憶えてる。(中略)結局、福岡に良い精神科があるって話を聞いて、僕は一時的に九州に戻ることにしたんだ」
1985年4月、大江は福岡にある精神科に入院、療養中のある日、病室を訪れた母が音楽雑誌を手渡す。
大江「衝撃だった。だって、そこには<大江慎也、ルースターズを脱退!!>っていう見出しが踊っていたんだから。僕としてはルースターズから一時的に離れて休んでいるだけって意識があったから、なおさら…。僕は何度も自分に言い聞かせた“これは、一時的な脱退である”」
彼は“脱退”したのではなかった。花田や下山が下した苦渋の決断でもあった。
花田や下山たちは、席を開けて大江が帰ってくるのを待っていたのである。
実際に花田本人も、その旨を伝えるべく、福岡を訪れ、大江と話をする機会を持ったのだが、結局、葛藤を胸に秘めたまま東京へ戻ってしまったという経緯がある。
雑誌『ロック画報17』[2004年] より、文・聞き手:志田歩
花田「俺は大江と話しようと思って、九州に帰って、病院にも行ったんすけど、結局そういう細かい話はできなくて。で、帰ってきた時に、柏木さんとメンバーとで、大江抜きでやろうって話したんすけど、…もう、メンバーの脱退どうのこうのは、嫌でしたね」
当時、私が大江慎也脱退のニュースを知ったのは雑誌を読んでだったと思うけど、雑誌の多くは処分してしまったので、どんな内容の記事だったかは不明。残っている雑誌をめくってみると一冊だけあった。
“ ROOSTERZからナント大江君まで脱退。解散か!?と思いきや4人で新生ROOSTERZとしてやっていくという。そういえばジュリアン・コープとの共演もありますね。(雑誌『DOLL 1985年8月号』風呂屋のダブ(井戸端会議)より)
上記の証言をまとめると大江脱退の経緯はこのようなものだったのではないか。
1985年3月、精神的不調により音楽活動が出来ないと判断した大江は、入院・療養生活に入るが、バンドにとっては突然のことだった。花田達メンバーとプロデューサーの柏木は、大江の入院先に面会に行くも、大江とバンドの今後についての話が出来なかった。この頃まで花田は、大江はそのうち戻ってくるだろうと考えていたが、4月になり大江はさらに良い治療を受けるために九州の病院に転院する。花田は大江と話をするべく九州へ向かい、大江の入院先を訪ねるが、ここでもバンドについての詳しい話が出来る状態ではなく東京へ戻る。
残されたメンバーと柏木は、これまでの大江の体調不良時の不安定なバンド活動を踏まえ、このあと大江がバンドに復帰したとしてもツアーなどが続けば再び体調が悪化し活動停止は避けられないだろう、と判断、大江は自らルースターズを離脱、脱退した、と公表し、代わりのヴォーカリストを入れるという案もあったが、花田がヴォーカリストを兼任することを決定、バンド名称の変更も検討(ゼロ等の案があった)したが、ルースターズとして花田、下山、灘友、柞山の4人での再出発となった。
花田の大江が戻ってくるだろうと思っていた、という発言や、大江の帰りを待ちながらルースターズの活動をしていたという記載があるが、花田はきっぱりこう言い切っている。
花田「もう自分が歌い始めた時点で、大江が戻ってくるのを待ってるとかって気持ちは無かったです」(雑誌『ロック画報17』[2004年] より)
ブルーにドロー・ペイントされた背景をバックに、不機嫌な顔の花田、初めてジャケットに登場した柞山とサングラスをかけ懐に手を忍ばせる灘友が座り込み、派手なメイクにブルージーンズの下山が立っている。シュリンクされたジャケットには“ BRAND NEW THE ROOSTERZ ”のステッカーが貼り付けてある。花田がメイン・ヴォーカリストとなった初めてのレコード、3曲入りの12インチ・シングル。
タイトル・トラックの「SOS」は当初「神様SOS」というタイトルで演奏されていた。
“ 神様お願い僕の気持ちを〜 ”のあと、“ 気分はますますブルー 〜こんな気持ちNO NO NO” の部分が無く、すぐにサビの“ SOS ”と歌われていた。作詞は柴山俊之。今になってこの歌詞を読むと、
君の部屋へ辿り着けない、電話口にも出てこない、僕の心に火をつけて知らんぷりをしないでくれ、という内容は、離れて会うことも話すことも叶わなくなったルースターズ結成者である大江慎也にあてたメッセージ、と読めないこともない(深読みのしすぎ?)。それに、えすおーえすはSave Ohe Shinyaと解釈できるかも(こじつけだな)。この「SOS」の歌詞について、花田は、
「なんか、精一杯やったんで、柴山さんの歌詞に思い切って曲をつけてみたんです。応援してくれてるなっていう気持ちは感じました」と語っている(雑誌『ロック画報17』[2004年] より)。作曲は花田で、アレンジは弾むようなポップな曲調だが、下山によると灘友は「こんなタイコを叩いている自分が情けない」と怒っていたという(『ロック画報17』)。「SOS」はPVも作られた。
アナログ盤B面の1曲目は花田作詞・作曲の「SUNDAY」。諸行無常、万物流転な歌詞を、淡々としたダークなトーンの演奏に、つぶやくように花田が歌う曲だが、ライヴでは下山がギターにディレイを派手に効かせたアレンジで演奏することもあった。
“かすかな ぬくもりが 僕の中にある 今だけ ただ 夢をおいかけて ”
という歌詞に花田の密かな再出発への決意を感じさせる。
B面の2曲目にはポップでラヴリーな「OASIS」。空想的でやや厭世的な歌詞は柴山俊之によるもの。以前ルースターズが取り上げたサンハウスの「ふっと一息(=All Alone)」に通じる世界を感じる。キーボードのシンプルなフレーズ、刻むようなギターのフレーズとバッキングがチャーミング。アレンジと歌詞の内容がベスト・マッチでネオ・アコースティックなテイストの曲。非常に好きな曲だ。
「SOS」や「OASIS」でシンセを弾くのは下山淳。シンセサイザー・プログラミングとエンジニアでクレジットされているのはバナナ・ブラザーズことデイト・オブ・バースの重藤功・進兄弟で、1984年12月に徳間からリリースされたオムニバス盤『ジャンピング・ジャムIII』(ルースターズの収録は無し)に続いて変名のクレジットとなっている。
BRAND NEW THE ROOSTERZはこの12インチ・シングルをリリースの後、元ティアドロップ・エクスプローズ、リヴァプールからやって来たジュリアン・コープとのジョイント・ライヴをスマッシュが企画、7月25日・大阪厚生年金会館、7月27日・日比谷野外音楽堂でおこなわれた。
参考文献:ボックスセット『Virus Security』ブックレット、雑誌『FOOL'S MATE 1985年10月号』、『ROCKIN' ON JAPAN FILE VOL.2』[1989年]、他は文中に表記した。