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『レコード・コレクターズ 2014年11月号 日本の女性アイドル・ソング・ベスト100(1980年代編)

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レココレで女性アイドルソングの投票をおこなっている。「あなたが選ぶ女性アイドル・ソング・ベスト100」。レココレ2014年7月号(1970年代編)と11月号(1980年代編)で選ばれた各100曲、計200曲がノミネート曲となる。 私は80年代アイドルというと、テレビ版「セーラー服と機関銃」を見て以来の原田知世ファンというか、シングル盤やLPを買っていたのだけれど、レココレ2014年11月号の日本の女性アイドル・ソング・ベスト100(1980年代編)で「時をかける少女」が1位というのは驚き。この曲を高い順位であげた選者が多かったということなのだろう。 2位の早見優も意外だったけど、松本伊代も評価高いな。 70年代、80年代それほどアイドルを聴いていたわけでもなく、テレビを通じて聴いていたくらいだが、私も投票しようと思っている。 たぶんこれで…。 あなたが選ぶ女性アイドル・ソング・ベスト10 1970-1989  1.赤いスイートピー/松田聖子  2.Woman〜 “Wの悲劇” より/薬師丸ひろ子  3.小麦色のマーメイド/松田聖子  4.時をかける少女/原田知世  5.木綿のハンカチーフ/太田裕美  6.春一番/キャンディーズ  7.卒業/斉藤由貴  8.涼風/岩崎良美  9.探偵物語/薬師丸ひろ子 10.UFO/ピンク・レディ

WILKO JOHNSON「 'CURED' OF CANCER」

ウィルコ・ジョンソンが末期のすい臓癌で余命1年だという事を紹介したのは2013年2月だった。それから1年8ヶ月。ウィルコ・ジョンソンが癌を克服した事を発表した。 当初手術不能と言われていたが、今年10月ウィルコのステージを見ていたチャーリー・チャン医師(余暇に写真家としても活動している)が “元気に活動出来ているのは何かほかの病気なのではないか?”と疑いを持ち知り合いのすい臓専門医師に紹介したという。 ウィルコは再検査で神経内分泌腫瘍という進行の遅い癌だとわかり、この春、腫瘍を切除したほか、すい臓全体と脾臓、胃と腸の一部を摘出、肝臓周辺の血管を切除/再建する手術を受け、遂に10月22日ロンドンで開かれた「Q Awards」に出演した際に「癌を克服した」と報告した。 ウィルコとチャン医師との出会いは、 BARKS“ ウィルコ・ジョンソンを救ったのは、外科医のファン ”で読むことができる。 素晴らしいファンが見ていてくれたね。

My Wandering MUSIC History Vol.37 LIZARD『GYMNOPEDIA』

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1981年10月、トリオよりリリースのアルバム。 リザードの3枚目となるこのアルバムはメンバーの相次ぐ脱退、前作『バビロン・ロッカー』制作時からけしの叢へ深く入り込んだモモヨを巻き込んだ事件を経て、レコード会社をキングからトリオへ移籍、バンド周辺の人間関係の危機、アルバム制作が進むにつれてバンドの崩壊も決定的となるなか、1981年の夏に録音されたものだ。録音メンバーはモモヨ、ワカ、ベル(この3人がリザード名義)、北川がクレジットされている。バンドはアルバム制作にあたり再起を誓ったが北川はレコーディング途中で、ベルもレコーディング終了後に脱退している。 アルバムタイトルの『ジムノペディア』はフランスの作曲家エリック・サティが1888年発表したピアノ曲のタイトル「ジムノペディ」をモモヨが変容させたもの。レコード帯には “今日の祝祭とは何か?黄金色の祝祭はどこへ行ってしまったのか?それがこのアルバムのテーマである” というモモヨの言葉が記されている。サティの「ジムノペディ」は古代ギリシアの祭典を描いた壺から着想されたらしいから、そのあたりも共通したイメージなのだろう。ジャケットはインディでリリースしたMOMOYO & LIZARD!名義の『SA・KA・NA』のジャケットと同じ撮影時のものが使用されている。付属しているインナーには歌詞が印刷されていなかったが、確か応募すると歌詞と写真を載せたブックレット仕様のものが貰えたのだと思う。私が持っているLPは中古で、そのブックレットが付いていたものを買った。 アルバムのイントロとして30秒ほど「王国」が使われ、ベースがうねり躍動する「セレブレーション」でアルバムは始まる。穴倉の暗闇から光を目指す流行性舞踏病を讃えた祝祭の歌だ。 “やぁ、君、また会ったね…”と言うフレーズが印象的に使われ、歌声の中に転生するモモヨの夢を描いた「眠りの国」。タイトル・トラックの「ジムノペディア」はサティ的、現代音楽的アヴァンギャルド性にドアーズをプラスしたような呪術的でもある曲。続く「放蕩息子の逆襲」はアップテンポでポップな曲。モモヨと北川のギターのアンサンブルが素晴らしく歌詞も秀逸。1980年12月のジョン・レノンの狙撃事件に材を取った「ガレキとガラス」。ここまでがアナログA面。 菅原庸介(モモヨ)著『蜥蜴の迷宮』によればこのアルバムの “A

My Wandering MUSIC History Vol.36 頭脳警察『頭脳警察セカンド』

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1972年5月、ビクター・MCAよりリリースのアルバム。 前回のPANTA『KISS』リリースとほぼ同時期に頭脳警察のセカンド・アルバムが再発されている。当時この再発はファンとしては、まぁパンタがラヴソング集を出すのと同じくらいの事件ではあったんじゃないか。なにしろ1972年5月にリリースされ1ヶ月で発売中止。それからどんな過激な内容なんだという噂が長らく語り継がれてきた幻のレコードだった。9年あまり市場から姿を消していたこのアルバムは1981年8月21日、つまりシングル「悲しみよようこそ」と同じ日、アルバム『KISS』リリースの1ヶ月前に再発売された。 このタイミングがパンタのスウィート路線論争をさらに過熱させる事になるのだが、まぁそれは前回の話だ。ただパンタによれば『頭脳警察セカンド』は1981年以前からレコード会社側から再発の話があって、頭脳警察の存在ばかりが大きいうちは嫌だとパンタ側が断っていたそうだが、PANTA&HALの存在が大きくなってPANTA&HALが解散した時点でパンタが再発をOKしたそうだ。伝説の『頭脳警察セカンド』が聴ける!その再発盤を早々と購入した友人のH君に借りて聴いたと思う。 パンタはヴォーカルとギター。ドラムは全編通してトシが演奏、ベースは増尾光浩がこの時期に加入し、サポートには初期メンバーだったギターの山崎隆志、フルートやピアノ、オルガンで吉田美奈子が参加している。「銃を取れ!」の歪んだ音色のベース・ラインのうねり、ギターの鋭いエッジのカッティング、メドレーでなだれ込む「マラブンタ・バレー」のコンガの響き、赤く/青く毒を吐くパンタのヴォーカル。冒頭の2曲を聴いただけでも頭脳警察のサウンドは異形のモンスターを思わせるものだった。ヘルマン・ヘッセの詩(植村敏夫訳、原題:Leb wohl, Frau Welt)に曲をつけたリリカルな「さようなら世界夫人よ」は頭脳警察を代表する曲で、吉田美奈子のフルートが印象的なフレーズを奏で、オルガンが荘厳に響く。後に内田裕也がカヴァーする軽快なロックンロール「コミック雑誌なんか要らない」。パンタの私小説的な「それでも私は」や「暗闇の人生」も魅力的な曲。 トシのコンガが活躍するヘヴィ・ロック「軍靴の響き」、人を喰ったような歌詞とサウンドの「いとこの結婚式」ではパンタはたて笛も演奏。この曲は

My Wandering MUSIC History Vol.35 PANTA『KISS』

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1981年9月21日、ビクター/フライングドッグよりリリースのアルバム。 パンク/ニュー・ウェイヴの影響を受け様々なグループ/アーティストが登場、スタイルやサウンドを先鋭的な方向へ変貌していったものも少なくなかった1981年の日本の音楽シーンで、これまでの過激な、またはポリティカル、ハードな姿勢から敢えてソフトでスウィートな路線に向かっていった一人のアーティストがいた。その年早々にPANTA&HALを解散したパンタだ。 パンタはソロ活動を開始するにあたって“みんなが口ずさめるうたなんてロックじゃない”と思ってこれまで活動してきたが、 “ロックであっても口ずさめるうたをやりたい”、“ロックとうたを分けない”という考えに変わり、 “うたをやるならば、今までひたかくしにしていたスウィートな部分を思いっきり出す”ことを目指したと語っている。 それに加え私見だが、この時期パンタのポピュラリティを得たいという思いはピークに達していたのではないだろうか。海外では様々な社会性を伴ったアーティストが多くの支持を得ている、それも世界的に。ラヴ・ソングでなくてもヒット・チャートに登場する。もちろん言葉の違いはあるので英語圏のアーティストと比べられないが、日本でのパンタの知名度はごく一部のロック・ファンに限られたものだ。これを全国に広げたい。歌詞が一般に受け入れられないものがあるならば、今回歌詞は犠牲にしてもいいだろう。サウンドとメロディは思いっきりスウィートに、日本の歌謡/ニュー・ミュージック/ポピュラー界へ切り込んでいこう。という戦略をパンタや制作側がこの時期に立てたのではないか、と勝手に思っている。 パンタは当時語っていた。“今、狙っているターゲットは、松山千春、オフコースのファン層。そっくりいただいちゃおう、と。 それであわよくばリチャード・クレイダーマンを聴いているファン層も” それらしい言葉が並んでいれば何でもいいと考えた歌詞は他人に依頼した。作曲は全曲パンタ(中村治雄)。ディレクション/編曲は歌謡/ニュー・ミュージックでも数多く仕事をしてきた矢野誠が担当した。 アルバムに参加したミュージシャンのクレジットは無いが、2007年の雑誌「ROCKS OFF Vol.1」の記事によると、 キーボード:矢野誠、難波弘之 ギター:今剛、白井良明、是方博邦 ドラム:上原裕、古田たか

LYNCH / FROST PRODUCTIONS「A special TWIN PEAKS announcement」

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なんと2016年にツイン・ピークスが復活。 米国のTV局Showtimeが2016年に戻ってくることを伝えるビデオ「A special TWIN PEAKS announcement」を公開している。25年後の現代を舞台にした続編となる模様。現在はリンチとマーク・フロストが脚本を作成中。9話が作られ、監督はリンチがするらしい。凄い。 再来年かぁ。早く見たいけど日本での放送はどうなるんだろう…。 やっぱり有料チャンネルだろうね…。

My Wandering MUSIC History Vol.34 THE MODS『FIGHT OR FLIGHT』

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1981年6月21日、エピック・ソニーよりリリースのアルバム。 ザ・モッズの初期のスタイルはヴィジュアル的にも格好良かったなぁ。友人の部屋の壁にファースト・アルバムリリース時のポスターが貼ってあって、たぶんロンドンでのレコーディングの時に撮られたものだろうけど、地下道にメンバー4人が並んだモノクロの写真だった。 “For The Broken Kids”とかアルバム帯に“すべてのグループを前座にする”とかいったキャッチ・コピー。スリムなブラック・ジーンズ、シャープシューズ、革ジャン、森山のセットされた髪型、首にはバンダナ。 ファースト・アルバムのジャケットもクラッシュのファーストを下敷きにしたようなデザインになってる。歌詞カードにはロンドン・ヒュー・ストリートのパブの前に立つメンバーの写真とトミー・スミスのシルエット。ファースト・アルバムのサウンド全体では、もともと森山らメンバーが好きだった初期フーなどのブリティッシュ・ビートに、パブロックやピストルズの『Never Mind~』、ジョニー・サンダース等のパンク影響下で、特にクラッシュのセカンド『Give 'Em Enough Rope(邦題:獣を野に放て)』や同時期のクラッシュのシングル作品に強く影響されたサウンドだと思う。エピックとの契約の際にバンドから提示したロンドンでレコーディングするという条件は、1981年4月~5月ロンドンのマトリクス・スタジオで叶えられた。 シド・ヴィシャス(本名・ジョン・サイモン・リッチー)をモデルにした「不良少年の詩(SONG FOR JOHN SIMON RICHIE AND US)」はスピーディで各楽器の絡みがスリリング。モッズが最初に契約しかけたアルファ・レコードでの出来事を題材にした「WATCH YOUR STEP」、サンフランシスコのガレージ・バンド、フレイミン・グルーヴィーズの「Shake Some Action」を引用した「崩れ落ちる前に」。この曲はファースト・シングルとしてもリリースされている。こんなカッコいい曲作れるんだぁと思ってたけど、元ネタがあったのを知ったのはずーっと後だった。でも完全にモッズの曲になっているよ。“崩れ落ちる前に/崩せ”というフレーズが特に印象的だった。崩れていくのを傍観者として見ているのではなく、自ら崩すのに手をかけろというパンクの“