追悼・フジコ・ヘミング
2024年4月21日、フジコ・ヘミング逝く。92歳だった。
クラシック音楽を学校の授業ではなく、自ら聴くようになったのはいつだろう。映画で使用された楽曲で印象に残ったのはキューブリック監督『2001年宇宙の旅』のシュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」、コッポラ監督『地獄の黙示録』のワーグナー「ワルキューレの騎行」、大林宣彦監督『さびしんぼう』のショパン「別れの曲」(日本語詞をつけて主演の富田靖子が歌った)などなど、ロック関連ではEL&Pの「展覧会の絵」や冨田勲の『惑星』を聴いたりしたけど、もっと強く印象に残ったのはブライアン・イーノが『ディスクリート・ミュージック』で使用したり、戸川純が歌詞をつけ「蛹化の女」として歌い、遠藤ミチロウも歌詞をつけて歌った「パッヘルベルのカノン」で、元曲が聴きたくてこの曲が入ったカラヤン指揮・ベルリン・フィル演奏のCDを買ったのが初めてだと思う。モモヨがインスパイアされてリザードのアルバム『ジムノペディア』を作ったというエリック・サティ「ジムノペディ」の入ったCDを買ったり。ショパンの「別れの曲」はホロヴィッツのCD買ったな。
1999年2月に放送されたNHK・Eテレのドキュメンタリー『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡」は、たまたま見ていたのだが、フジコの波乱の人生、その人物像、華麗な「ラ・カンパネラ」の演奏は驚きだった。このドキュメンタリーは評判を呼び、フジコは一躍注目されることになる。私の職場でもビル・エヴァンスなどのジャズ好きのAKさんが「見た。フジコの演奏いいね」と言っていた。1999年8月にはCD『奇跡のカンパネラ』がリリースされ大ベストセラーとなる。AKさんが早速買ったので借りて聴いた。フジコは1931年12月生まれだから、この時67歳。この後、フジコを題材としたドラマ、映画、ドキュメンタリーなどの番組がつくられ、フジコの演奏を収めたCDも続々とリリースされ、フジコのコンサートには多くのファンがつめかけた。
髪をカラフル染め、首にスカーフを巻いて、ブレスレットをはめ、演奏中にジャラジャラ音をたてそうな大きなイアリングをつけてピアノを弾くフジコ。「自分らしく血の通った演奏をしたい」、「音を飛ばしたって、間違ったってかまわない。機械じゃないんだから」と強く自己主張をするフジコは、さしずめクラシックのヴィジュアル系か。
丸っこい指から奏でられる音はやわらかく、テクニックはシャープに、聴くものの胸に響く。パチンコ漬けの漁師をピアノ漬けの生活に変えフジコのフロントアクトにするまでにその影響力はあった(そのドキュメンタリー番組も作られた)。
私が初めてフジコのCDを買ったのが2003年リリースの『雨だれ(Impressive Pieces)』。リスト、ショパン、グリーグ、ラヴェルの曲を集めた。この中では特にラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」が好き。坂本龍一を思い浮かべるような現代音楽的な印象をもつ曲だ。
『雨だれ(Impressive Pieces)』(2003年)
CDデビューは67歳、ではそれ以前の録音はというと、2003年にリリースされたベスト盤『フジ子・ヘミングの奇跡〜リスト&ショパン名曲集』のCD2にドイツSWR放送局(旧SDR)で1988年6月に録音された「ラ・カンパネラ」と「愛の夢 第3番」が収録されている。フジコこの時56歳の演奏。
『フジ子・ヘミングの奇跡〜リスト&ショパン名曲集』(2003年)
さらに遡り、ジャケ写は右上に掲載したが、1973年イイノホールでのライヴ演奏を収めた『ラ・カンパネラ1973』にはショパンの「別れの曲」と「練習曲 第12番 革命」、リストの「ため息」と「ラ・カンパネラ」を収録。。このときフジコ41歳(か42歳)。他に1983年ストックホルムでのライヴでリスト「鬼火」、1998年の奏楽堂でのライヴから6曲(うち3曲はいとこの娘大月礼子との連弾)、2004年東京芸術劇場のライヴ1曲を収録している。
フジコが亡くなった翌月『NHKスペシャル』「魂のピアニスト、逝く 〜フジコ・ヘミング その壮絶な人生〜」が放送された。去年11月に大怪我を負い、病気療養中にリハビリもかねてピアノにむかうフジコだったが、静かに幕を閉じるように自ら鍵盤の蓋を閉じる姿が印象的だった。
R.I.P...