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THE BEATLES「FREE AS A BIRD (2025 MIX)」

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2025年12月3日、ユニバーサルミュージックよりリリースのCDシングル。 2023年にザ・ビートルズ「Now And Then」がリリースされたとき、ジョンのヴォーカルと後付けの演奏の一体感に感心、以前リリースされた「Free As A Bird」と「Real Love」も同様の最新技術デミックスを使用して制作して欲しいなぁと思ったが、その願いは叶えられた。 1995年版と比べてまず気がつくのは、ギターのストロークやアルペジオ、オブリのフレーズが前面に出ていることで、ややベースの音は抑えられたように思う。演奏のバランスを考えるとこれは賛否あるかも。ジョンの歌声は、もともとが自宅で録音したデモテープが素材なので通常のレコーディングとは違って大きな声で歌っているものではない。それをバンドとしてレコーディングされたダイナミックな音圧のある演奏とミックスするのだから違和感を感じるのは否めない。しかし今回ジョンのヴォーカルはよりくっきりと浮かび上がり、自然に演奏に溶け込んでいると思う。 鳥のように自由に 最高とはいかないけどその次に素敵なことさ 鳥のように自由に 無事に終わって 寝ぐらに帰る鳥のように僕は飛ぶ 翼を持つ鳥のように かつて僕たちが慣れ親しんだ暮らしはすっかり変わってしまった 僕たちは本当にバラバラの状態で生きていけるのだろうか どこで触れ合うことを失くしたのだろう あれほど大事に思えたのに つながりはいつも僕には大切なことだったんだ いつも僕が自由を感じていた かつての僕らの暮らしはどうなってしまったんだ 「Free As A Bird」Original Composition by John Lennon カップリングには同様にデミックス技術を使用し、新たにミックスした「Real Love(2025MIX)」。ジョンのヴォーカルはややはっきししたものの、ヴォーカルと演奏との一体感がいまひとつという意味では今回の2025年版でもそれほど改善されていない印象をうける。

私の放浪音楽史 Vol.125 AZTEC CAMERA『KNIFE』

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1984年12月21日、ワーナー・パイオニア/WEAからリリースのアルバム(イギリスでは1984年9月21日リリース)。 アズテック・カメラのスタジオアルバム第2作。プロデュースはマーク・ノップラー(ダイアー・ストレイツ)、メンバーはヴォーカル・ギターのロディ・フレイムの他、 ベース:キャンベル・オーエンス ドラム:デイヴィッド・ラフィー の前作と同じメンバーに、 ギター:マルコム・ロス(オレンジ・ジュース)が参加、 キーボード:ガイ・フレッチャー というメンバーでレコーディングされた。印象的なジャケットのイラストレーションはリンダ・グレイによるもの。ロディ・フレイムはこのアルバムタイトルを「ふたつに分けるものの象徴」と語っているが、このイラストも雨の降っている/降っていない空がナイフで裂かれたように白い部分で分けられている。収録曲にも様々な分離についてが描かれているようだ。  アルバムのオープニングはジャキジャキとしたパワフルなギターのカッティングと、心の情熱を持ち続けようと力強く歌う「Still On Fire」で、シングルとしてリリースされている。 “用心深さのしがらみを打ち破ってくれる全てのものに惹かれる  僕らが立ち上がり、より良い日々へと抜け出そうという時に  それでもこう言う人がいる  貧しい状況から自由になるにはお金が必要だって  ふーむ、それはどこかに転げ落ちた場所から見上げた時の嘘だよね  なぜなら 太陽の光が証明してくれる   炎を絶やさぬために 過ごしたすべての時間は僕たちのものだってことを ” 『Still On Fire』 words by Roddy frame 続いて、 ”僕は誘惑を称えるだろう その栄光も その末路も  だけど僕は空回りして先に進めず、堂々巡り  まるでUSAみたいだ” という歌詞をポップに歌った「Just Like The USA」、しっとりとした曲調で頭脳と心の感情の分離をリリカルに描いた「Head Is Happy(Heart's Insane)」は、歌詞の“You know I'm coming. You know I'm coming. You'll feel me coming like a gun from below”にセク...

私の放浪音楽史 Vol.124 THE SMITHS「HOW SOON IS NOW?」

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1985年1月、ラフトレードよりリリースの12インチシングル。 ボ・ディドリーに肖りトレモロのエフェクトをかけたギターがボ・ビートを刻む。マイク・ジョイスのドラムは16ビート。硬質なアンディのベース。そのサイケデリックな演奏にモリッシーの浮遊感のあるヴォーカルが重なる。マーのスライドやハーモニクスのフレーズも印象的。ほぼワン・コードで6分43秒に及ぶエキサイティングだが催眠効果と中毒性を併せ持った曲だ。 シングル「William, It Was Really Nothing」制作時に作られ、シングルA面として発売も検討されたがラフ・トレードによって見送られ「William,〜」の12インチのカップリングとして収録、その後コンピ・アルバム『ハット・オブ・ホロウ』にも収録された。ラジオ・プレイが多かったことから結局シングルA面曲としてリリースされることになったが、すでに2枚のレコードに収録済みということありチャート的には全英24位だった。 “How soon is now?(今っていつ来るの?)”というタイトルそのままの言葉は歌詞の中にはないが、相当する箇所はある。 ”僕が受け継いだのは犯罪的にひどく内気な性格だって  僕が受け継いだのは何の取り柄もないことだって  黙れ  よくそんなことが言えるな  物事を間違ったやり方で進めてしまう 僕だって人間なんだ  他のみんなと同じように誰かに愛されたい  今に起こるよって君は言うけど  それって“いつ”のことなの?  ねぇ、僕はもうずっと待ち続けてきたんだよ  そして僕の希望は何ひとつ残っていない” ジャケットには第二次大戦中のイギリス軍撤退作戦を描いたレスリー・ノーマン監督の映画『ダンケルク (原題;Dunkirk)』(1958年公開)から俳優ショーン・バレットの写真(おそらく浜辺で跪いている姿)が使用された。12インチのカップリングにはインスト曲「Oscillate Wildly」と、この後リリースされるオリジナル・セカンド・アルバム『ミート・イズ・マーダー』に収録される「Well I Wonder」。7インチ「How Soon Is Now?」シングルには3分41秒に編集したエディット・ヴァージョンが収録された。 下の画像はアメリカ...

私の放浪音楽史 Vol.123 THE SMITHS『HATFUL OF HOLLOW』

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1984年12月16日、徳間ジャパン/ラフ・トレードよりリリースのコンピレーション・アルバム(イギリスでは1984年11月リリース)。 ザ・スミスの2枚目にリリースされたアルバムで、シングル収録曲6曲と4回のBBCセッションから10曲を収録したコンピレーション。寄せ集め感はなくバンドの初期衝動と進化していく様を見事に捉えた内容で、このアルバムも繰り返し繰り返しよく聴いた。 ジャケットにはフランスの雑誌「リベラシオン(Libération)」1983年7月号に掲載されたジャン・コクトーの線画をもとにしたタトゥーを左肩下にいれた青年の写真が使用され、その白黒写真をかこむカラーは涙色。アルバムのタイトルは『虚しさで溢れた帽子』。 収録曲は下記(アナログでは9曲目からB面)。  1. William, It Was Really Nothing  2. What Difference Does It Make?  3. These Things Take Time  4. This Charming Man  5. How Soon Is Now?  6. Handsome Devil  7. Hand In Glove  8. Still Ill  9. Heaven Knows I'm Miserable Now 10. This Night Has Opened My Eyes 11. You've Got Everything Now 12. Accept Yourself 13. Girl Afraid 14. Back To The Old House 15. Reel Around The Fountain 16. Please, Please, Please, Let Me Get What I Want Track 1, 5, 16 from 12inch single「William, It Was Really Nothing」 Track 2, 6, 15 from BBC Radio 1 JOHN PEEL Show first broadcast 31/5/83 Track 3, 11 from BBC Radio 1 DAVID JENSEN Show ...

私の放浪音楽史 Vol.122 THE SMITHS「HEAVEN KNOWS I'M MISERABLE NOW」

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1984年8月25日、徳間ジャパン/ラフ・トレードよりリリースの12インチ・シングル(イギリスでは1984年5月リリース)。 ザ・スミス4枚目のシングル。タイトルはサンディ・ショウの60年代の楽曲「Heaven Knows I’m Missing Him Now」にかけている。 まず目を引くのはジャケットのヴィヴ・ニコルソンの肖像。サッカー賭博で大金を手にし(実際に当選したのは彼女の夫らしい)、その後浪費によって財産を失い無一文になったというイギリス人女性。彼女はこの後もザ・スミスのシングルのカヴァーアートに登場した。プロデュースはジョン・ポーター。エンジニアはボブ・ポッターと記載があるが、1988年リリースのCDシングル(RTT156CD)ではエンジニアはスティーブン・ストリートとクレジットされている。 “呑んだくれているうちは楽しかった  だけど僕が今惨めなのは言うまでもないこと  仕事を探して、どうにか見つかった  そして僕が今惨めなのは疑いようもない  僕が生きていようが死んでいようが気にもしない奴らに  なぜ僕の人生の貴重な時間を使わなければならないのか” ジョニー・マーのギターのチャイムのようにキラキラとしたフレーズ、スムーズなカッティングにのせて、ニセモノで紛らわすな、自分の価値を貶めるな、とストレートなメッセージが歌われる。1984年1月初めて訪れたニューヨークでサイアー・レコードと契約し、ジョニー・マーがシーモア・スタインに買ってもらった(それも契約条件のひとつだったという)、赤の59年製ギブソン355をホテルに持ち帰り最初に作った曲。全英チャートで初のトップ10ヒットとなったシングル。 カップリングには女の子と男の子のすれ違いを描いた「Girl Afraid」と、ファーストアルバム『ザ・スミス』から「Suffer Little Children」を収録。シングル発売後にたまたまこのシングルB面の「Suffer Little Children」を聴いたサドルワース・ムーア事件(連続児童誘拐殺人事件)の遺族はザ・スミスに対して抗議、一部のショップでこのシングルが回収、アルバム『ザ・スミス』は発売中止となる事態に。その後、ザ・スミス側から“この曲は犠牲になった子供達への追悼曲であり、悲しみを代償に金儲け目...

私の放浪音楽史 Vol.121 SANDIE SHAW「HAND IN GLOVE」

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1984年7月25日、徳間ジャパン/ラフ・トレードよりリリースの12インチシングル(イギリスでは1984年4月リリース)。 モリッシーの敬愛する60年代の歌姫・サンディ・ショウがザ・スミスの楽曲を歌った3曲入りの12インチシングルで、当初は「I Don't Owe You Anything」がA面に予定されていたがスミスのデビュー曲「Hand In Glove」がA面としてリリースされた。 ザ・スミス・ヴァージョンで印象的だったイントロのハーモニカは使用されておらず、サンディ・ヴァージョンにリアレンジされ、ややザラっとしたサンディのヴォーカルで歌われる。ザ・スミスの輝かしいデビュー曲で、“ギャング仲間のスピリット”(byモリッシー)を高らかに宣言した「Hand In Glove」を再び世に問うかたちとなったこのシングルは、全英チャートで27位をマークした。 “ぴったり息のあったふたり  私たちは世界の中心で光り輝く  ぐるのようなふたり   善良な奴らは笑っているわ  確かに私たちはボロを着ているけど  あいつらには決して手に入らないものを持っているのよ” 「Hand In Glove」 カップリングにはファーストアルバム『ザ・スミス』収録曲の「I Don't Owe You Anything」。 7thコードを多用したクリアなギターサウンドとキーボードの響きが爽やかな夏の夜のバックグラウンドミュージックとも言えそうな演奏だけどモリッシーの歌詞が歌われればそれはザ・スミスの世界。 “盗んだワインで誘惑され  うなずいたのが全ての始まりだった  次に何が来るのかあなたはよく知っていた  私はあなたに借りはないけど、あなたは私に借りがあるのよ  今すぐ返してちょうだい  人生は決して優しくはない  人生は厳しいもの  でも今夜何があなたを笑顔にするのか私は知っているわ” 「I Don't Owe You Anything」 カップリングにはもう1曲「Jeane」。ザ・スミスのシングル「This Charming Man」のカップリングに収録されていた曲で、サンディのヴァージョンはアコースティック・ギターの響きをメインにしたアレンジになっている。...

私の放浪音楽史 Vol.120 THE SMITHS「HAND IN GLOVE」

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1983年5月、ラフトレードよりリリースの7インチシングル。 ザ・スミスの初音源は7インチのみでリリースされた。 A面の「Hand In Glove」は当時のマネージャーのジョー・モスがおよそ200ポンドの資金を出し、1983年3月にバンド(というかジョニー・マー)のセルフ・プロデュース、マンチェスター・ストックポートのストロベリー・スタジオでレコーディングされ、3テイク目がシングルになった。ジョニー・マーはギターに加え、イントロ(とアウトロ)にハーモニカをダビングし、モリッシーもバックコーラスをダビングしている。モリッシーはヴォーカルパートに満足出来ず、ジョー・モスが費用を負担しヴォーカルを再録音している。 このフェイドインで始まるシングル・ヴァージョンの「Hand In Glove」はワイルドなミックスでアンディ・ルークのベースが極端に大きく、ギター、ドラム、ヴォーカルも塊となって襲ってくるラウドなヴァージョンだ。後にファーストアルバム『ザ・スミス』にジョン・ポーターのリミックスで収録されるが、そこではベースの音は引っ込み、ヴォーカルと各楽器がバランスよく、聴き易くなっている。確かにバンド(特にモリッシー)がデビューシングルのような荒々しい仕上がりをデビューアルバムに求めていたとすれば『ザ・スミス』の音に満足するものではなかったと思う。 B面には1983年2月4日、マンチェスターのハシエンダで行われたライヴ・ヴァージョンの「Handsome Devil」を収録。こちらもベースが強調された性急で緊張感に満ちた迫力ある演奏だ。 私はこのシングルをファースト『ザ・スミス』の後に聴いたと思う。手元にある7インチのバックスリーヴにコンタクト先(ラフトレード)の住所がロンドンとプリントされているがこれは1984年にリイシューされた盤であるとDiscogsに説明されている。スリーヴはメタリックなシルヴァー、モリッシーによって採用(クレジットはSleeve by The Smiths)された写真はジム・フレンチによるものでブルーに加工されている。このお尻ジャケット初めて見た時は結構インパクトあったな。歌詞の中の“the sun shines out of our behinds”に関連しているのかも。 ドイツでリリースされた12インチシングル「Still Ill」のジャケットに...

私の放浪音楽史 Vol.119 THE SMITHS「WHAT DIFFERENCE DOES IT MAKE ?」

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1984年6月25日、徳間ジャパン/ラフ・トレードよりリリースの12インチ・シングル(イギリスでは1984年1月リリース)。 ザ・スミス3枚目のシングル。 ジャケットのアートワークは当初映画『コレクター(The Collector)』(監督:ウィリアム・ワイラー・1965年)の主演俳優テレンス・スタンプの写真が使用されたが許諾が取れておらず、モリッシーが同ポーズをとるアートワークに変更されている。右の画像は日本盤で最初からモリッシー版だったと思う。ザ・スミスのジャケット・アートは映画俳優や歌手、作家などの肖像が使われているからバンドメンバーの登場するジャケットはむしろレアと言ってもいいかも。 ラウドでワイルドでパワフルでソリッドでメタリックな印象もあるギターリフとリズムにのせて、君のために命をかけたのに君は僕を裏切り、僕から去っていった、”でも僕はまだ君が好き、それで何が変わるっていうの?”とモリッシーが歌う「What Difference Does It Make?」。ファーストアルバム収録曲。 カップリングには、あの住み慣れた古い家に戻りたくない、君はまだあそこに住んでいるだろうか、引っ越したかな? あの古い家に帰りたいけど決して戻らない。と揺れる心をアコースティックギターにのせて歌う「Back To The Old House」で、”キュッ・キュッ”と響くギターのポジションチェンジの音が切なさを増す。もう1曲は、時間をかけることを嫌って待ちきれない相手に“鮮やかな絶頂期に君は僕を置き去りにするだろう”とここでも諦めと悲しみを歌う爆走ロックンロールナンバー「These Things Take Time」を収録。

私の放浪音楽史 Vol.118 THE SMITHS『THE SMITHS』

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1984年、徳間ジャパン/ラフ・トレードよりリリースのアルバム(イギリスでは1984年2月リリース)。 以前 モリッシー自伝 を取り上げた時にも紹介したが、1997年にアルバム『マルアジャステッド』を発表後しばらくしてモリッシーは“ 黒板のような空 ”のイギリスを離れ、“毎朝間違いなく寝室の窓に日光が射し込む ”アメリカ・ロサンジェルスのウエスト・ハリウッドに家を購入し移り住む。 1984年の初め、リリースされたばかりのザ・スミスのファースト・アルバム『THE SMITHS』を友人のHちゃんに借りて繰り返し繰り返し聴いていた時に私が持った印象は、やはり冬のどんよりとして寒々とした曇り空、雪がちらつく灰色の空だった。 1曲目の「Reel Around The Fountain」、イントロには短くドラムの抑えた演奏、そしてモリッシーが歌い始める。 “今、物語を語る時が来た どうやって子供を連れ去りあなたが使い古しにしたのか  噴水のまわりをぐるぐると回る  中庭で僕を叩いて  僕は受け入れる  あぁ、君との15分間  僕は嫌だと言わないだろう”   ヴェルヴェット・アンダーグラウンドに共通するようなイメージに満ち、メランコリックなアルペジオのギターにのせて淡々と歌うモリッシー。途中からポール・キャラックのピアノとオルガンが加わり、さらに憂いは増す。 アナログでA面のラストにおかれた「The Hand That Rocks The Cradle」は、   “僕たちは共に横たわり、共に祈りを捧げる  だから切ない願いを君の瞳に宿すことはないんだよ  揺りかごを揺らす手が僕の手である限りは” と幼い子供とともに過ごすことを淡々とした揺らぐような歌声で歌い、楽曲のラストにはアル・ジョンソンの楽曲「Sonny Boy」から歌詞の引用 をしている (インナースリーブに”Quotation from  Sonny Boy”と クレジットがある)。   “僕の膝の上に登っておいで坊や  君はまだ3つだよね、坊や ” 「The Hand That Rocks The Cradle」は、モリッシーとマーが出会って最初に作られた曲でもある。 ブルーな雰囲気はアルバム・ラストに...

私の放浪音楽史 Vol.117 THE SMITHS「THIS CHARMING MAN」

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1984年6月25日、徳間ジャパン/ラフ・トレードよりリリースの12インチシングル(イギリスでは1983年10月リリース)。 “その朝、どこかとても明るそうな曲のアイディアとともに目が覚めた。レーベル・メイトでもあるアズテック・カメラの陽気な曲がラジオでしょっちゅう流れていたことが関係していたのかも、と後で思ったものだ ”と「This Charming Man」誕生のきっかけについてジョニー・マーが回想している(『ジョニー・マー自伝 』丸山京子訳・シンコーミュージック刊・2017年)。 マーの自伝には、それは2回目のジョン・ピール・セッション(1983年9月)前のことと記載があるから1983年の夏頃か。アズテック・カメラのどの曲をマーが聴いたのか不明だが(すでにアズテック・カメラのアルバム『 ハイランド・ハードレイン 』はリリース済)、パンクに影響を受けたバンドやアーティスト達のアコースティックな響きやクリーンなギターサウンドを取り入れた作品が目立ち始めた頃でもあった。 1983年9月にザ・スミスは2度目のBBCジョン・ピール・セッションに出演し「This Charming Man」を含む新曲4曲が放送された。スミスの2枚目のシングルは「Reel Around The Fountain」が予定されていたが、この新曲の出来にヒット間違いなしと確信したラフ・トレードは「This Charming Man」を次のシングル候補にする。まずロンドンのマトリックス・スタジオでレコーディング、さらに十分な時間をかけ磨きをかけてマンチェスターのストロベリー・スタジオで再レコーディングをおこないシングルとしてリリースされた。7インチは「This Charming Man c/w Jean」、12インチは「This Charming Man (Manchester) / This Charming Man (London) c/w Accept Yourself / Wonderful Woman」と4曲入りで「This Charming Man」はロンドンでの録音とマンチェスターでの録音の2ヴァージョンが収録された。ロンドン・ヴァージョンはややエコー感の強いモヤッとした仕上がり、マンチェスター・ヴァージョンはギターとリズム隊のサウンドが引き締まり、ミックスもタイトで耳に残る仕上がり。...

日比谷野音(日比谷公園大音楽堂)休止

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日比谷野音が明日10月1日から再整備工事のため使用休止、建て替えをし2029年頃の再開となるそうだ。休止前のラストライヴはエレカシだったとニュースでみた。 野音はパンタの「 SATURDAY NIGHT CLASH 」と題したライヴを観たのが最初だったが、数える程しか野音には行ってない。他には1985年のジュリアン・コープ VS ルースターズ、2001年の頭脳警察、2005年のロックンロール・ジプシーズ(+大江慎也)くらいか。イベント的なのが多いな。でもあの独特の空間は好きだった。緑もあるけど、ビルに囲まれて、ビルの窓の灯りを見て、都会でロックを観る・聴く・感じる、ということを意識した。明るい時間から徐々に夕闇に包まれ、暗くなり照明でステージが彩られていく過程も楽しめるものだった。 やっぱり野音といえばRCでしょ。 『THE TEARS OF A CLOWN』のライヴ映像(1986年) 冒頭で空撮の野音の景観が見られる。夕方の薄暗がりにステージから客席を映したショットもいいよね。

私の放浪音楽史 Vol.116 AZTEC CAMERA『HIGH LAND HARD RAIN』

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1983年、ジャパンレコード/ラフ・トレードよりリリースのアルバム(イギリスでは1983年4月リリース)。 アズテック・カメラのファースト・アルバム。日本盤の帯には”アコースティックな青春を瑞々しく称えるアズテック・カメラ。ポスト・テクノにこのような音楽が流行ることを注目している”とムーンライダーズの鈴木慶一が推薦文を寄せている。 ジャケットのイラストとデザインはこれまでもラフ・トレードからのシングルのジャケットデザインを手掛けていたデイヴィッド・バンドによるもので、雨、女性、木、列車、ラッパを吹く人が描かれ、アルバムの内容のイメージをうまく表現していると思う。演奏メンバーは「 Oblivious 」と同じでキャンベル・オーエンスのベースは聴きどころ多し。 シングル曲「Oblivious」でアルバムが始まり、ホグマネイ(Hogmanay)というスコットランドの年越し祭りも歌詞に登場する「The Boy Wonders」はイントロがスコティッシュな軽快な曲。アルバムタイトルが後半のコーラスに歌い込まれている。 「Walk Out To Winter」は、“ジョー・ストラマーの顔写真が君の壁から落ちて 掛かっていた場所には何も無い”という歌詞が特別印象に残る曲。ロディ・フレイム自身パンクに共感し、バンドを始めた当初はクラッシュの「White Riot」や「Gargeland」を演奏していたそうだ。このアルバム『ハイランド・ハードレイン』がリリースされた1983年当時もはやクラッシュは空中分解寸前(ミック・ジョーンズ解雇直前)、パンクの掲げた権威への反抗とクラッシュの掲げた平等への理想は脆くも崩れ去り、パンクの理想の後に壁に掲げるものは何もないと歌ったこの「Walk Out To Winter」によりリスナーはあらためてパンクの終焉を認識することになったのである。 不穏な歌詞を歌うロディのヴォーカルが悲しげに聴こえる「The Bugle Sounds Again」。  “吸血鬼達が殺人を犯す  奴らのポケットは小銭で溢れ  誰かが代償を払わなければならないと言う” と現代にも通じるラインがある。 続いてポストカードからのデビューシングル(「Just Like Gold」)のB面曲の再録「We Could Send Letters」はアルバムのな...

私の放浪音楽史 Vol.115 AZTEC CAMERA「OBLIVIOUS」

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1983年、ジャパンレコード/ラフ・トレードよりリリースの12インチ・シングル。 1983年頃聴いていたのは、切っ先鋭く陰影のある音像が魅力的なエコー&ザ・バニーメン、ジョイ・ディヴィジョン、バウハウスといったところだったが、友人宅でこのアズテック・カメラの12インチを聴いた。ロディ・フレイムのスウィートだけど甘すぎないヴォーカルにテクニカルなギター、瑞々しいメロディとラテンなアレンジには一発で虜になった。その不思議な名前AZTEC CAMERA(アステカのカメラ)と真っ直ぐこちらを見つめる民族衣装を身に纏ったような女性のポートレートを使用したジャケットも記憶に残るものだ。 ポストカードから2枚のシングル、ラフトレードから1枚のシングルを経てリリースされた「Oblivious」は7インチと12インチでリリースされた(イギリスでは1983年1月リリース)。右のジャケ写は日本盤の12インチで帯のキャッチコピーは“君に捧げる青春の風景”、「Oblivious」の邦題はいかにもな“思い出のサニービート”とつけられ、なんだかセピアでほろ苦い印象(まぁサニーサイドな曲調からのイメージを受けてなんだろうけど)。「Oblivious」の冒頭、 “ From the mountain tops down to the sunny street   A different drum is playing a different kind of beat ” というラインからインスパイアされた邦題と思えるが、邦題からのややノスタルジックなイメージじゃなくて、違うんだけど似通っているもの、同じようなんだけど違っているもの、について歌われているのではと思う。タイトルのOBLIVIOUSと歌詞に使われているOBVIOUSの似通った綴りと意味の違い、に表されているんじゃないか。 ”通りを歩く君の足音が聞こえる  僕たちが出会うのもそう遠くないよ  それは明らかなこと (OBVIOUS)  仲間になったり、ならなかったり、僕はその叫びを待っているだけ  気付かないけどね (OBLIVIOUS) ” 「Oblivious」written by Roddy Frame B面には(12インチでは)、セミアコの音色にのせて、ゆったりとして落ち着いた「Orch...

私の放浪音楽史 Vol.114 BAUHAUS『IN THE FLAT FIELD』

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1980年11月、4ADからリリース(UK)のアルバム。 デュアン・マイケルズの写真「Homage To Puvis De Chavannes」を使用したフロント・カヴァーが印象的。1981年にリリースされた日本でのアナログ盤は一部にぼかしが入っていた。 3枚のシングルリリースを経たバウハウスの初めてのアルバムで、オリジナル・アナログ盤ではそれらのシングル曲を全く収録していなかった。 圧倒的にダーク、絶望的にヘヴィでありながらもしばしばシアトリカルな音像が軽妙な印象もあたえる。ピーター・マーフィーはグラムな雰囲気をたたえつつ、咆哮というかストレンジな叫び声をあげ、有刺鉄線のようにエッジーなギターが容赦なく聴覚に突き刺さる。時にファンクな、時にはトライバルなリズムをゴシックの中に埋め込み、立体的に構築されたアート作品と言っていいだろう。 アルバムは神秘的なイントロからスロー&ヘヴィな「Double Dare」で始まり、続くスピーディでスリリングな「In The Flat Field」は“退屈だ 平らな場所は退屈なんだ”という叫びが耳に残る。ソリッドな「God In An Alcove」や「Dive」、ミニマルな「Spy In The Cab」や「Small Talk Stinks」、舞踏病についてと思われる内容の「St.Vitus Dance」、“磔刑の恍惚の中で…”で始まる重圧で攻撃的なサウンドの「Stigmata Martyr」、呪術的な「Nerve」の充実した9曲を収録。 後のリイシュー盤ではシングル曲をボーナストラック収録しており、セカンド・シングルの「Dark Entries」でアルバムが始まるCDもあるが、やはり「Double Dare」で始まって欲しいよね。 そのグループ名のとおり、1919年ドイツで起こったバウハウス・ムーヴメントのように虚飾を排し、無駄を削ぎ落としたサウンドは後のバンド/アーティストに多大な影響をあたえた。 1981年に日本でリリースされたアナログ盤LP

私の放浪音楽史 Vol.113 ECHO & THE BUNNYMEN『HEAVEN UP HERE』

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1981年5月30日、KOROVAよりリリースのアルバム(UK)。 鮮烈なデビューアルバムと楽曲のスケールを拡大した『ポーキュパイン』に挟まれた第2作。ややいぶし銀的な印象を受けるが、1曲1曲は硬く芯まで凍りつき、それぞれの曲から痙攣するような振動が感じられるだろう。まるで抜き身の刃のような青白い妖気を漂わせる緊張感に満ちた名盤である。 アルバムのオープニングは1980年11月BBCのジョンピールセッションでは「That Golden Smile」として演奏していた「Show of Strength」で“Your golden smile would shame a politician”という歌詞が歌われている。うねりのあるギターフレーズがかっこいい。続いてスピード感のあるパンキーな印象の「With A Hip」、ライヴEP『シャイン・ソー・ハード』に収録されていた「Over The Wall」はもくもくと湧き上がる灰色の雲のような不穏なイントロからタイトでパーカッシヴなドラミングがダイナミックな曲。ファンキーな印象の「It Was A Pleasure」、シングル曲の「A Promise」。アナログ盤ではここまでがA面。 ノイジーなギターが炸裂するタイトルトラックの「Heaven Up Here」、シンプルかつサイキックな小品「The Disease」、ライヴEPでは「Zimbo」というタイトルだった「All My Colours」、ユニークな印象もある「No Dark Things」、粉砕するように攻撃的なサウンドの「Turquoise Days」、“私が望むもの全てが私は欲しい 私が愛しむもの全てを私は愛す 間違いを犯したとしても、誰がそれを責められよう”(大意)と歌われる「All I Want」がラスト。バニーメンの歌詞って全体的にフィロソフィーとメランコリーが混在しているよね…。 スパイキーでタイトな演奏が充実したこのアルバムはイギリスでトップテンヒットとなった。 このアルバムを含むバニーズ初期4枚の美しいアルバムジャケットを撮影したフォトグラファー、ブライアン・グリフィン(Brian Griffin)は2024年に亡くなっている。

映画『狂い咲きサンダーロード』公開45周年記念復活上映決定!

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石井聰亙監督作品『狂い咲きサンダーロード』が公開45周年を記念して再上映される。 以下 (株)トランスフォマー公式HP より。 石井岳龍(ex.聰亙)監督が、日本大学藝術学部映画学科在籍時、23歳の若さで卒業制作として発表した日本が世界に誇る近未来バイオレンス映画『狂い咲きサンダーロード』。今なお伝説として語り継がれ、各界に影響を与え続ける本作ですが、公開から45周年を記念して特別再上映が決定しました! 東京・シネマート新宿では、8月22日(金)より2週間の限定上映。そのほか、北は北海道から南は沖縄まで全国各地で順次爆走予定です! 新しい復活上映のトレーラーも公開された。 この映画に関しては以前にも何度か書いている。 映画『狂い咲きサンダーロード オリジナルネガ・リマスター版』 Blu-ray(2016年11月) 朝日新聞 be on Saturday 映画の旅人『狂い咲きサンダーロード』 (2006年3月)

私の放浪音楽史 Vol.112 ECHO & THE BUNNYMEN『SHINE SO HARD』

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1981年、KOROVAよりリリースの12インチライヴEP(UK)。 1981年1月17日、ボクストンのパヴィリオン・ガーデンズでおこなわれたライヴを収録した短編映像作品『SHINE SO HARD』のサウンドトラックとしてリリースされた。ファーストアルバム『クロコダイルズ』から「Crocodiles」と「All That Jazz」が、後のセカンドアルバムに収録される「Zimbo」(後の「All My Colours」)と「Over The Wall」の4曲を収録している。 この12インチ、ジャケットはかっこいいし、バニーズのライヴ演奏が聴きたくてぜひとも入手したかったが1980年代中旬、新宿のコレクターズショップではかなり高額で売られていてなかなか手に入れられなかった。私が『SHINE SO HARD』を聴いたのはリリースから随分経ってからで、これはお茶の水にあったシスコで購入したと記憶している。私の12インチはニュージーランド盤で、買った値段は覚えてないけどコレクターズ価格ではなかったと思う(オリジナルUK盤は文字がグリーンなんだよね…)。 ラフでフリーキーになった「Crocodiles」、Zimboという言葉が繰り返し歌われ催眠的な効果を生みだしている「Zimbo」。そして特にピート・デ・フレイタスのパーカッシヴなドラミングは、アタックの強いドラムロールで高揚感をもたらす「Over The Wall」や「All That Jazz」、エキゾチックなムードを演出する「Zimbo」で印象に残る。「Zimbo」の歌詞がアルジャーノン・ブラックウッドの小説『ジンボー』(原題:Jimbo: A Fantasy)にインスパイアされたのではないか、ということを読んだのは日本では1983年12月に来日記念盤としてリリースされた『エコー・アンド・ザ・バニーメン(ネヴァー・ストップ)』に封入されていた大野祥之のライナーノーツだった。そこには“主人公のジンボー少年の肉体と心が分離して、心が閉じ込められながらも、最後には閉じ込められた部屋の外へ飛び出す”というストーリーが紹介されている。今回セカンドアルバムに収録されている「All My Colours」の歌詞を読んで、“Flying”ではじまり、“What d'you say when your heart's i...

私の放浪音楽史 Vol.111 ECHO & THE BUNNYMEN『CROCODILES』

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1980年7月18日、KOROVAよりリリース(UK)。 私がこのバニーズのデビューアルバムを聴いたのは3枚目のアルバム『ポーキュパイン』の後だから、1983年後半頃か。最初に入手したのは日本盤のアナログだった。オレンジやグリーンに照らされた夜の森に佇むメンバーを写したジャケットがアーティステック(フォトグラファーはブライアン・グリフィン)。シャープで躍動感のある粒揃いでコンパクトな曲が並んでいる。ブロデュースはビル・ドラモンドとデイヴィッド・バルフの変名ザ・カメレオンズと、一部イアン・ブロウディ。 フィードバックノイズの霞の中からリズムがフェイドインしてくる「Going Up」、後にリリースするライヴEPのタイトル『Shine So Hard』になる“Stars are stars and they shine so hard"という歌詞の一節があるメランコリックな「Stars Are Stars」、“キーモン、キーモン”というモンキーを逆さ言葉にして繰り返し歌う「Monkeys」、ライヴでは長尺になるがアルバムではザクザク、ジャキジャキのギターがかっこいいスピーディなタイトルトラック「Crocodiles」、シングル曲「Rescue」とその12インチのカップリング曲「Pride」(この2曲のプロデュースがイアン・ブロウディ)、ピアノの旋律が印象的な「Villiers Terrace」、ZOOからのファースト・シングル収録曲の再演「Pictures On My Wall」、躍動感に満ちた「All That Jazz」と「Happy Death Men」でアルバムは終了。 タイトでパワフルなピート・デ・フレイタスのドラムとグルーヴィーなレス・パティンソンのベースは鉄壁のリズム隊。そして鋭利なフレーズを奏でるウィル・サージェントのギター、艶やかな響きのイアン・マッカロクのヴォーカル。スペシャルなクリエイティヴティはこの4人ならではのものだ。キーボードはデイヴィッド・バルフが弾いている。 この日本盤はUKリリースと同仕様10曲入りで、バンドの代表曲のひとつ「Do It Clean」とジュリアン・コープとイアン・マッカロクの共作「Read It In Books」はアルバムに収録されていなかった。イリギス盤にはその2曲を収録したシングルが付属している限定盤がある...

追悼・渋谷陽一 『季刊 渋谷陽一 BRIDGE』

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雑誌名に自分の名前を冠した『季刊 渋谷陽一 BRIDGE』。創刊号1994年2月号の冒頭「創刊にあたって」で渋谷陽一は“雑誌業界から編集者の顔が失われている”危機感を訴え、この本を“徹底した個人誌、同人誌以下の個人的作業で作ってみよう”と思い、”全てのインタビューを自分で行なったし、かなりの写真も自分で撮った”、“『ROCKIN' ON JAPAN』は若手のミュージシャン中心だが、この本はベテラン・ミュージシャンを中心に構成”、そして“今の日本の音楽シーン支えている大物ミュージシャン達が主体となるメディアが存在していない”状況を“音楽雑誌業界の持つ構造的な問題”それは”情報をいびつなものにしてまっているのは確かだ”と記載している。 創刊号は忌野清志郎、カールスモーキー石井、浜田省吾、佐野元春、大沢誉志幸、CHAR、少年ナイフ、いまみちともたか、山下達郎、吉川晃司のインタビューを掲載、先にも書いたが全てのインタビュアーは渋谷陽一。どれも読み応えあり、少年ナイフの会社勤めしながらバンド活動&パックツアーで海外ライヴの話で盛り上がるインタビューが微笑ましい。 第2号は1994年4月号で「佐野元春の10曲」と題し「アンジェリーナ」、「サムデイ」、「コンプリケーション・シェイクダウン」、「約束の橋」といった代表曲10曲を選定、その曲を通して渋谷陽一が佐野元春というアーティストに迫るという企画。もっともCDが売れていた時期の強気のユーミン、阿久悠に作詞を依頼した時期(シナロケ のアルバム『ROCK ON BABY』)の鮎川誠、バンド名通りの神経質な内容のナーヴ・カッツェ、その他に仲井戸麗市、シュークリムシュ、久保田利伸、サンプラザ中野、EPO、松浦雅也、平沢進、MIX NUTS。すべて渋谷陽一がインタビューしている。渋谷陽一が撮影した写真も前号に比べて増え、佐野、シュークリームシュ、ユーミン、久保田以外はすべて渋谷の写真が使われている。 第3号1994年7月号も10曲を選び、その曲からアーティストに迫る企画の第2弾「浜田省吾の10曲」。「路地裏の少年」、「片想い」、「愛の世代の前に」といった代表曲10曲が選ばれた。2025年の現代にそのまま通じる内容をもつ「愛の世代の前に」は、広島と核兵器をテーマにし8月6日に作ったと語られている。ほかに2・3'Sが活動休止した...

追悼・渋谷陽一 『ROCKIN'ON JAPAN』&『Cut』

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1980年代中頃、雑誌『rockin'on』で日本のアーティストを取り上げた記事が多くなって来たなぁと思っていたら、ついに邦楽専門の雑誌『ROCKIN' ON JAPAN』を『rockin'on』増刊という形で刊行。創刊号は1986年10月号、初代編集長は渋谷陽一。初期〜A4変形版で刊行されていた時期のアーティスト写真は邦楽誌のなかでも群を抜いたクオリティだと思う。 画像の右上は創刊第2号の1987年1月号。表紙は花田裕之(ちょっと分かりにくい?)。カメラマンは鋤田正義。花田のインタビューあり(インタビュアーは広瀬陽一)。ルースターズ『KAMINARI』リリース時期のインタビューだがアルバムに関する話はなく、“ルースターズは僕の敵”というややネガティブな内容。。渋谷陽一は浜田省吾、桑田佳祐、ストリート・スライダーズ、山下達郎、大沢誉志幸と5つのインタビューを受け持つ活躍ぶりだ。 左上は創刊第3号で1987年3月号。表紙は忌野清志郎。渋谷陽一は、清志郎の2万字インタビュー、モッズの森山達也、坂本龍一、デーモン小暮、矢沢永吉とここでも5本のインタビューを担当。清志郎のインタビューは、やはり渋谷陽一じゃないとこうはならないと思う内容で必読(清志郎が亡くなった2009年に刊行されたROCKIN'ON JAPAN特別号『忌野清志郎 1951-2009』に再掲されている)。坂本龍一のインタビューも渋谷ならではの内容。 左下はインターナショナル・インタビュー・マガジン『Cut』の第6号(Rockin'on 1990年11月増刊号)。表紙はジャック・ニコルソン。外国から版権を獲得したインタビューが多く、『ワイルド・アット・ハート』、『ツイン・ピークス』公開時期のデイヴィッド・リンチのインタビューあり。渋谷陽一はイッセー尾形のインタビューを担当、他数本の記事を執筆している。右下は『Cut』1997年5月号。デイヴィッド・リンチ『ロスト・ハイウェイ』の特集あり、このころは渋谷陽一は編集長ではなくインタビュアーの担当も執筆記事もない。雑誌『Cut』は創刊号から毎号購入していたが今はデイヴィッド・リンチ関係と興味のある音楽関係を残して処分してしまった(すまん)。『Cut』は『マルホランド・ドライブ』公開時にデイヴィッド・リンチのインタビュー(インタビ...