投稿

私の放浪音楽史 Vol.24 PANTA & HAL『TKO NIGHT LIGHT』

イメージ
1980年10月5日フライング・ドッグ/ビクターよりリリースのライヴ・アルバム。 パンタの音楽を初めて聴いたのはおそらくこの2枚組のライヴ・アルバムだったと思う。もしかしたら当時出来はじめていたレンタル・レコード店で借りたかも。 このアルバム聴いたら虜になるよね。頭脳警察解散後ソロ~この時までの代表曲を選曲(と当時未発表の6曲)した全16曲のダブル・アルバム(CD化の際1枚にまとめられた)。アルバムの冒頭、曲がはじまる前の指慣らしのような何気ないギターやベースの音にもスリリングな雰囲気を感じる。1980年という時代のページがひとつめくられて、20世紀末へのカウントダウンが静かに始まり、日本の世相にとどまらず、世界の地図が動き出す予感と、 “HAL”というグループ名のもとになった21世紀への新たな冒険への期待と熱気をパッケージしたドキュメントでもある。 東京・日本青年館で行われたライヴが録音されたのは1980年7月16日でPANTA&HALとしては活動末期にあたる。バンドは1981年2月に解散してしまう訳だが、パンタが音楽方向性についてバンドのメンバーと移動中の新幹線の中で一対一の“面接”をするのは5ヶ月後の1980年12月。1981年1月早々に持たれたミーティングでパンタからバンドメンバーに解散が伝えられたという(『PANTA&HAL BOX』付属ブックレットより)。この時間の経過を見てみると、7月のライヴ・レコーディング時に“解散を前提とした記録”という意味付けはなかったと思う。『マラッカ』、『1980X』と2枚の傑作スタジオ・アルバムを世に問い、メンバーを変えながらも時代と時代の音楽に対峙してきたバンドの集大成として、また次へのステップ・通過点、一夜の記録として聴いてもらいたいと思う。 PANTA&HALの活動初期から演奏されていたテーマ曲「HALのテーマ」、オリジナル・メンバー今剛在籍時に作られたファンキーな「羅尾」、 次に制作される予定だったHALのアルバム『クリスタル・ナハト』に収録するはずのドイツを舞台にした「フローライン」、TOKYOでもなくTOKIOでもなくTYOでもなく“TKO=東京”の都市の風景、それも都市にテクニカル・ノック・アウトされた、かなり殺伐とした風景ばかりを切り取った歌詞と成田空港にまつわる逸話をあわせこんだ、...

私の放浪音楽史 Vol.23 MOMOYO & LIZARD!『SA・KA・NA』

イメージ
1980年7月ジャンク・コネクションよりリリースのミニ・アルバム(コンパクト盤)。 日本で作られた自主制作のレコードを手にしたのはこのモモヨ&リザード名義の『サ・カ・ナ』が初めてだったんじゃないか。シングル盤と同じ7インチ・レコード盤で回転数は33 1/3rpmなので、当時はミニ・アルバム(コンパクト盤)と呼ばれていた。折りたたんだポスタースリーブのジャケットにはモモヨの写真と歌詞、水俣病に関する写真や資料一覧、連絡先も記されていた。プロデュースはモモヨで、“This Mini Album Not Produced By J.J.Burnel”と記載がある。A/B面に1曲ずつ収録されていて、A面はDJスタイルと題されたヴォーカル入りのヴァージョン、B面はDISCOスタイルと題されたパーカッションなどを強調したダブ・ヴァージョンとなっている。 モモヨの自伝的著作『蜥蜴の迷宮』にモモヨが「サ・カ・ナ」という曲の構想を思い浮かぶ場面が出てくる。シングル「浅草六区」のジャケットに使用する写真のロケーションに出かけたバスの中で、車窓から見える東京の灰色の空と、バスに乗る虚ろな瞳の人々にサカナの目を想起したとき、数日来考えていた水銀や廃棄物によって汚染された海が、漁師たちの垂れる釣り針を待て、とサカナ達に語り掛ける“海の復讐”というテーマと結びついた、と書いている。 “不知火”(八代海沿岸)と“水銀”という言葉を使ったのは“おおかたの人がそれ(水俣)を忘れているからだ”と記しているが、ただ水俣の公害を取り上げたわけではなく、蜃気楼揺れる都会の底で毒を蓄えて機会を窺っている“ボクタチサカナ”をも表したかったのだろう。 繰り返すキーボードのフレーズとベースライン、フェイジングしたハイハットのビート、コラージュしたようなギターのサウンドを聴いた時には新鮮な驚きを感じたものだ。特にB面のDISCOスタイルのダブ・ヴァージョンはモモヨの奇怪な叫びと共に強烈な印象を残した。今ならポスト・パンク的なサウンドと言えるが、当時これを聴いたときはまだPIL『Metal Box』やポップ・グループ『Y』なんかは未聴だった。それに水俣病という具体的な社会的事柄を歌詞に込めるというのも印象的で、クラッシュ等の海外のパンク・バンドと同様に日本のバンドもポリティカルな楽曲を作れるんだと思ったものだ。 レコー...

私の放浪音楽史 Vol.22 SEX PISTOLS『THE VERY BEST OF SEX PISTOLS AND WE DON'T CARE』

イメージ
1979年日本コロムビアよりリリースのベスト・アルバム。 このHPの中でよくパンク/ニュー・ウェイヴVSハード/ヘヴィ・ロック(またはプログレ)という書き方をしているが、 2014年の今となっては両者の対立に何の意味があるのか、と思えるけれど、オリジナル・パンクが出現した1976年からハードコア・パンクが登場する1980年まで、少なくとも(特にイギリスでは)パンク・ロックはヘヴィ・メタルだけではなく、ブルース・ロックやプログレッシヴ、クロスオーヴァー、ディスコ・ミュージックへのアンチであり決別であった。パンク・ロッカー達はゼップやクイーンやシンリジィ、ピンク・フロイドやイエス、ビージーズ等を罵倒し、自分たちのサウンドが如何に真実味があるかを語っていた。 私もいよいよパンク/ニュー・ウェイヴ熱が高まるにつれ、それまでせっせと収集していたハード/ヘヴィ/プログレのレコード、ブラック・サバス(ブートもかなりあった)やオジー・オズボーン、ディープ・パープル、レインボー、ギラン、ユーライア・ヒープ、キャメル、ナザレス、バッド・カンパニー、アイアン・メイデン、ジェフ・ベック、テッド・ニュージェント、TOTO等、日本では紫やレイジー、スペース・サーカス等のアルバムを売りに行った。当時は手提げの紙袋にレコードを入れ、重たいのにわざわざ都内の中古屋まで売りに行っていたのだ。レコードが売れるとその金を元手に中古盤屋や輸入盤屋でパンクやニュー・ウェイヴのレコードを買った。そんな買い方をした覚えがあるのがこのセックス・ピストルズの日本編集ベスト盤。たしか渋谷のハンターで買ったと思う。 たぶんピストルズを始めて聴いたのは友人に借りた『グレイト・ロックンロール・スウィンドル』だったような気がする。見開きジャケでインナーに写っていたキャット・ウーマンの写真が話題になっていたけど、裏ジャケのバンビの写真が気持ち悪いし、なんかシンフォニーで始まるし、ヴォーカリストは変わるし、音質も良かったり悪かったりと内容については散漫な印象。もちろんシドの「My Way」や「Something Else」、「C'mon Everybody」はかっこよかったし、ポール・クックやスティーヴ・ジョーンズが歌う「Silly Thing」、「Lonely Boy」もポップで好きだった。なので、『グレイト・ロックンロ...

私の放浪音楽史 Vol.21 子供ばんど『We Love 子供ばんど』

イメージ
1980年5月5日キャニオン・レコードよりリリースのアルバム。 少し前にも書いたが1979年~1980年あたりは新しく興味を持ったパンク/ニュー・ウェイヴを聴き始めていたが、それまで聴いていたハード/ヘヴィ/プログレも引き続きレコードの購入、貸し借りも続いていた。日本のバンドでは、アイドル・バンドを捨て本来の自分達の表現を出し切ったレイジーのスタジオ最終作『宇宙船地球号』、謎の覆面バンド・シルバースターズ『銀星団』、野獣(と書いて“のけもの”と読む)『From The Black World(地獄の叫び)』等のハード・ロックや、プログレではスペース・サーカス『ファンタスティック・アライヴァル』、ノヴェラ『魅惑劇』、アインソフ『妖精の森』、ムーンダンサーや新月のファーストなんかを聴いたが、当時はやはりパンク/ニュー・ウェイヴ勢の魅力に急速に惹かれていて熱心に聴くという感じではなくなっていた。しかしこの時期に繰り返し聴いていたのが子供ばんどのファースト・アルバム『We Love 子供ばんど』だった。 当時和製AC/DCとも言われたが、アンガス・ヤングのギブソンSGに対して国産ヤマハSGを自在に掻き鳴らすうじきつよしのギタリストとしてのテクニックは確かなものだったし、頭にミニアンプをつけたヘルメットを被ったパフォーマンスなど見た目のおもしろさもあった。 このファースト・アルバムはジャケットがコミカル。楽曲も堅苦しいことは言わず、ガキの言い分も聞け!といった内容で、「のら猫」、「ロックンロール・トゥナイト」、「踊ろじゃないか」など、どうなるか分からない明日への不安やいらいらした気分を吐き出し、ロックンロールで吹き飛ばす、といった歌詞をハードなロックンロール/ブギーなサウンドでコンパクトに仕上げていて聴き易い。アカペラの「赤いBODY(鬼のハイウェイ・パトローラー)」も楽しい小品。 なかでも我々の間ではエディ・コクラン(というかTHE WHOのヴァージョンを下敷きにしたと思われる)「サマータイム・ブルース」の日本語カヴァーが大人気で、 “アンタはまだまだ子供だよ”の部分が皆気に入って歌っていた。1982年には「Summertime Blues あんたはまだまだ子供だよ(子供ばんどのサマータイム・ブルース)c/w Walkin' Away」として再録音・シングルリリース...

私の放浪音楽史 Vol.20 P-MODEL『IN A MODEL ROOM』

イメージ
1979年8月ワーナーよりリリースのアルバム。 1973年から活動していたプログレッシヴ・バンド“マンドレイク”がパンク/ニュー・ウェイヴに影響を受け1978年に解散。マンドレイクのメンバー3人(平沢進Vo&G、田中靖美Key、田井中貞利Ds)にベーシスト(秋山勝彦)を加えP-モデルを結成、1979年に発表したのがこのデビュー・アルバム。このアルバムを聴いたり、テレビの特集で見たパンキー・テクノなバンドの前身がプログレ・バンドだったとは当時知る由もなかった。後にリリースされたマンドレイク『アンリリースド・マテリアルVol.1』(1997年)のライナーには、"70年代中期に新月、美狂乱と並び称され” ていたと書いてある。新月のアルバム(1979年リリース)は聴いていたけれど、 どこかで名前くらいは見ていたのだろうか。 平沢進はパンクのヴィジュアルから大きく影響を受けたと語っている通り、ジャケットの配色はピストルズの『Never Mind The Bollocks, Here's The Sex Pistols』を意識したような色使いでヴィヴィッドなイエローとピンクが使用されている。初回プレスはピンク・ヴィニールだった。 シングルになった「美術館で会った人だろ」を始め、スカのリズムを取り入れた「ホワイト・シガレット」や「サンシャイン・シティー」など キーボードがカラフルでパンキーなスピード感のあるナンバーが多いけれど、ドラムのリズム、フィルの多彩さと安定感はさすが前身がプログレ・バンドだけのことはある(当時はそんな聴き方してなかったけど)。その分ベースはシンプルなルート音の演奏が多い。秋山はベース初心者だったようだが「偉大なる頭脳」ではベースのフレーズが効いている。平沢の出身地近郊をタイトルにした「Kameari Pop」の電子音のダンサブルな心地よさも特筆もの。この場合の“Pop”は“Population”の略だろうか、亀有の住人を観察したセカンド・シングル。後年歌詞が変更されている。 初期の攻撃的なパンキッシュなサウンドは3枚目のアルバムからは徐々に内向的な音作りになるが、その前触れとも(マントレイクの手法に戻っていくとも)いえる「偉大なる頭脳」、「アート・ブラインド」、「ソフィスティケイテッド」も面白い。歌詞の内容は「美術館で~」や「子供...

私の放浪音楽史 Vol.19 ヒカシュー『ヒカシュー』

イメージ
1980年2月イーストワールド/東芝EMIよりリリースのアルバム。 ヒカシューで強く印象に残ったのは、メンバーが真っ赤なブレザーに白いパンツスタイルの東京オリンピック(1964年)日本選手団制服を着ていたヴィジュアル。 “金曜娯楽館”だったか“ステレオ音楽館”だったか定かではないが1980年頃のテレビ番組のニュー・ウェイヴ/テクノ・ポップ特集を見た時だ。それに巻上公一のユーモラスで不気味な表情と強い発声、コミカルなイメージがありながらも機械的でユニークな楽曲も印象に残った。バンド名の“ヒカシュー”も奇妙ですぐ覚えられる。武満徹の “悲歌” に由来するが、無意味化するためカタカナにし、無意味な “ヒカ” として様々な楽曲を演奏する、そういった意味を無化する“集” 合体であることから、 “ヒカシュー”と名付けたと巻上が語っている(ばるばら著『ナイロン100%』アスペクト社発行)。 オリンピックの制服はファースト・アルバムのジャケットでも着用している。このアルバム・ジャケットで使用されている椅子は渋谷にあったニュー・ウェイヴ・バー“ナイロン100%”(ヒカシューのメンバーも訪れ、ライヴもしている) で使われていたものと同じものらしい。だけどこのアルバム・ジャケットはイメージが散漫な気がする。裏ジャケの滝本淳助による“路上でこたつに入りインターフェースのケーブルを抜き差しするヒカシューの面々”のほうが このグループの特徴を良くとらえていると思うけど。 当時ヒカシューはドラムレスでリズム・ボックスを使用していたが、ファースト・アルバム(プロデュースは近田春夫)では、ゲスト・ミュージシャンで泉水敏郎(8 1/2、ハルメンズ)や高木利夫(近田春夫&BEEF、ジューシー・フルーツ)がドラムで参加している。ドラムスのクレジットがないのは「20世紀の終りに」、「プヨプヨ」、「炎天下」、「ヴィニール人形」、「幼虫の危機」だが、「20世紀の~」はスネアだけ入れようとかリズム・ボックスのレコーディングには苦心したようだ。 アルバムの内容はどの曲も個性的。「レトリックス&ロジックス」や「ルージング・マイ・フューチャー」はロックンロール・ベースな スピード感があるナンバー、Xレイ・スペックスを彷彿とさせる。「モデル」はクラフトワークの日本語カヴァー。怪奇大作戦なムードの「ヴィニー...

私の放浪音楽史 Vol.18 LIZARD『LIZARD』

イメージ
1979年11月ウィンドミル/キングよりリリースのアルバム。 私が日本のパンク/ニュー・ウェイヴで初めて手にしたアルバムは『東京ロッカーズ』と『東京ニュー・ウェイヴ'79』(いずれも1979年リリース)。この2枚のオムニバス・アルバムはどちらもトータルで大好きなアルバムだけれど、以前にとりあげているのでここでは取り上げない。『東京ロッカーズ』に収録されているバンドで単体として追いかけて聴き始めたのはリザードだった。Mr.カイトやミラーズは自主製作のシングルは手に入れられなかったしアルバムが出なかった(リザードのファーストがリリースされる1979年11月には、Mr.カイトもミラーズも解散していた)。フリクションは(恒松のHPを作っておいてなんだが)当時10代半ばの耳には若干敷居が高かった。リザードはアルバム『東京ロッカーズ』に起承転結、オチもあるブラック・ユーモアな「ロボット・ラブ」と、現実への失望と奪われた夢の復活を歌う「レクイエム」の2曲を収録していたが、モモヨのヴォーカルは聴き取り易く、アレンジもポップでどちらも気に入って聴いていた。 地引雄一による工場を写したコントラストの強い無機的なモノクロ(一部の光がイエローに光っている) の写真を使用したリザードのファーストアルバムのジャケットはそれだけでアートだったし(地引の実家に近い京葉コンビナートのチッソ五井工場の夜景が使われた)、帯に書かれたコピー “鋼鉄都市ヲ破壊セヨ” には、それまでの日本のロック/ポップスとは違う、という変革へのアティテュードを感じたものだ。アルバムのプロデュースは空手修行の為に来日していたときにリザードのライブ・テープ(S-Kenスタジオで録音されたもの)を聴いたストラングラーズのジャン=ジャック・バーネルで、ロンドンのエデン・スタジオで1979年7月28日から8月2日にかけてレコーディングされている。 キーボードの薄い靄のなかで始まるアルバムの1曲目「New Kids In The City」はミディアムな落ち着いたトーンのナンバーでパンク・ロック的な激しさは無いが、ジャケットのイメージとあわせて近未来的な印象を受けた。モモヨが常に意識していたアンファンテリブルな目線を持ち、裏通りで遊ぶ新しい子供達の未来に対する変化への呼びかけであり、硬直した大人たちの世界への決別の宣言である。...

私の放浪音楽史 Vol.17 THE CLASH『LONDON CALLING』

イメージ
1979年12月CBSよりリリースのアルバム。 “ Punk is attitude, not style ” とはいうもののバンドの見てくれはひとつの要素。クラッシュの「London Calling」のプロモーション・ヴィデオに魅了された人は多かったのではないか。テムズ川に面した雨のバターシー・パークでドン・レッツによって制作された「London Calling」のプロモーション・ヴィデオに映る4人のカッコいいこと。イントロの映像でギターを担いで演奏する場所へ歩いて行く姿なんかは、後の石井聰亙監督の映画『爆裂都市』の最初でバトル・ロッカーズが楽屋からステージに向かうシーンに通じるものを感じてしまう。 ミック、ポール、トッパーはスーツやロング・コート、ソフト帽、ネクタイ(昔のギャング・ムーヴィー・スタイル)で決めているが、ジョーの首にバンダナをまいてる姿もかっこいいよなぁ。それに最初の“London Calling…”とフロントの3人がマイクに向かって歌うまでのシークエンスでもう釘づけ。これに勝るプロモ・ヴィデオはなかなか無いんじゃないか。このヴィジュアルや「London Calling」のコード進行 “Em/C“の繰り返しに影響を受けた日本のバンドも多かったのでは。 アルバムとしてもアナログ盤では2枚組(日本盤は3,500円、初回プレスのみポスター付だった)で、ボリュームがあるけど全曲が捨て曲なしで魅力ある曲が並んでいる。タイトル・トラックに続くヴィンス・テイラーのロカビリー・カヴァー「Brand New Cadillac」、 ゆったりジャズ・テイストの「Jimmy Jazz」、変わってビシッとタイトな「Hateful」、映画『ルード・ボーイ』に使用されていた「Rudie Can't Fail」、ドラムから入るアコースティック・タッチの「Spanish Bombs」はミックの高音とジョーの低音ヴォーカルの掛け合い/コーラスの対比が素晴らしい曲。歌詞も“DC10で爆撃”やスペイン語のコーラスなど耳に残るフレーズが多い。ノリの良い曲で思わず体を動かしてしまう。アイリッシュ・ホーンズが活躍する「The Right Profile」、「Lost In The Supermarket」は今でも大型スーパーに行くと頭に浮かんでくる曲。ミックが歌ってるけど、歌詞はミック...

PINK FLOYD「SHINE ON YOU CRAZY DIAMOND」

イメージ
フィギュアスケートの2013~2014年のシーズンが終わった。 羽生結弦は昨年12月のグランプリ・ファイナル、今年のソチ五輪、今回の世界選手権でいずれも優勝、金メダルを獲得し史上2人めの3冠を達成した。私は伊藤みどりが活躍していた時代からフィギュアスケートを見続けてきたけれど、そのころには男子の金メダリストが誕生するのは夢のように思えたものだ。ましてひとつのシーズンに3つの金メダルをひとりの男子選手が手にするなど夢想だにしなかった。大きく変化したのは高橋大輔の活躍からだと思うが、それ以前の本田武史の活躍も現在の発展に大きく寄与していると思うし、田村岳斗など多くのスケーター達が現在日本男子フィギュアスケートの栄光の礎を築いてきたと思う。 フィギュアスケートの魅力はもちろん卓越したエッジ・ワーク、人間離れしたジャンプなどスケート技術を見ることにあるのだが、選曲に合わせた表現力を見るのも大きな楽しみだ。スケート靴のエッジが氷の滑らかな表面を“ザッ、ザッ”と削ってゆく音がなぜかもの悲しく響き、 選手の差しのべられた手は、失ったものに、または希望に向かう。その表現はシングルの競技であってもすべて愛の表現であるといって良いだろう。 そしてショート/フリーで演技する曲がどんな曲か、というのも楽しみのひとつ。ロック系だと今季は高橋大輔がビートルズ・メドレーを使ってたし(個人的にはあのアレンジはあまり彼に合ってなかった思う)、ちょっと前に小塚崇彦がジミヘンの「Little Wing」を使ってた。羽生結弦のショートの曲「Parisienne Walkways(邦題:パリの散歩道)」もうれしい選曲だった。 ゲイリー・ムーアの初ソロアルバム『バック・オン・ザ・ストリーツ』に収録されていて、1978年のリリース当時友人に借りて聴いていた。あの泣きのギターが印象的で私たちの間でも人気のあった曲だった。羽生がこの曲を使い始めて、改めて聴いてみたのだがフィル・ライノットのボーカル入りだった! 競技に使われているように、インストの曲だ、と思っていたのだ(私が持ってるのはシンリジィのベスト盤に入っていた)。羽生の使用しているのは後半に他のブルージィな曲が付け足されたものになっている。 そんな楽しみのあるフィギュアスケートだが、今季アシュリー・ワグナー(アメリカ)がショート・プログラムで使用していた、ピ...

私の放浪音楽史 Vol.16 THE CLASH『PEARL HARBOUR '79』

イメージ
1979年EPIC/SONYよりリリースのアルバム。 クラッシュのアルバムではこのアメリカ向けに編集されたファースト・アルバムでジャケを日本独自アウター・カヴァーで覆った『パール・ハーバー'79』を気に入って聴いていた。 クラッシュのファースト・アルバムはその音質の悪さにアメリカでの発売が見送られていたが、輸入盤として売上が良かったため、UKオリジナル・ヴァージョンから「Deny」、「Cheat」、「Protex Blue」、「48 Hours」を削り、アメリカでリリースされていなかったシングル曲を追加、「White Riot」はシングル・ヴァージョンに差し替え、初回盤は「Groovy Times c/w Gates of The West」のボーナスシングルを付けて1979年7月にリリースされた。『Give 'Em Enough Rope(邦題:動乱)』は既に前年リリースされており、1979年1月~2月に初めてのアメリカ・ツアー“Pearl Harbour Tour”を行い、9月からの2度目のアメリカ・ツアー“Take The Fifth Tour”直前というタイミングだった。 日本では1977年にリリースされていたオリジナルUKヴァージョンのファースト・アルバムも聴いていたと思うが、アメリカと同じように日本でもリリースされておらず聴くことができなかったシングル盤からの曲を聴けるということが、当時この『パール・ハーバー'79』の価値を高めていたと思う。もちろん輸入盤のシングルは日本に入ってきていたが、田舎町に輸入盤屋は無いし、都会に行ったとしてもアルバムの半分くらいの値段がして2曲しか聴けないシングルは当時ほとんど買うことは無かった。 「Clash City Rockers」、「Complete Control」のパンキーなナンバーも良かったが、ゆったりとしたレゲエ・ナンバーの「(White Man)In Hammersmith Palais」にはクラッシュの新しい魅力を感じたし、ミックが歌うポップな「Jail Guitar Doors」がとても好きだった。それにイギリスで発売された「Cost of Living EP」からの3曲、超名カヴァー(今ではクラッシュがオリジナルと思っている人もいるかも)「I Fought The Law」、パワ...

朝日新聞 be on Saturday 映画の旅人『狂い咲きサンダーロード』

イメージ
3月15日の朝日新聞朝刊土曜版 be on Saturdayの“映画の旅人”で紹介されているのは、なんと『狂い咲きサンダーロード』! うれしいですねぇ。まぁ記事としてはこれまで読んだり聞いたりしたことのある内容が多かったが、やはり全国紙の別刷りでこの映画の事が多くの人々の目に触れる機会があるっていうのは、やはりうれしい。 この“映画の旅人”のテーマは“青春”なのだけど、映画の内容と共に過酷な撮影の日々を過ごしたスタッフ・出演者達の青春も同時に語られている。記事を読んで思わず『石井聰亙 DVD Box Vol.1』から取り出して再度鑑賞してしまい、オーディオ・コメンタリー(これが楽しい)でもう一度観てしまった。 当時からバイクで群れて走るって事に思い入れは無いけど、スピードへの純粋な憧れを描いたこの映画には、いつ観ても石井聰亙の(恐れを知らぬ)初期衝動を詰め込んだパワーを感じることができる。それに独特の“軽み”があるのもこの映画の特徴だと思う。新聞ではあまり使用された音楽に言及は無いけど、私が泉谷しげるを好んで聴くようになったのはこの映画によるところが大きい。パンフレットに載ってた曲名見て、自分で90分テープに録音してサウンド・トラック・アルバム作ったなぁ。モッズ「うるさい」と「ションベン」以外の曲も発表してくれないかな…。  右上のジャケ写は映画『狂い咲きサンダーロード』のオープニング・タイトルバックで使われている、1977年4月10日にフォーライフレコードからリリースされた泉谷しげるの「電光石火に銀の靴 」サンプル盤シングル。8インチ盤サイズのスリーブに入れられていてWhiteVinylの7インチ盤だった。アーティスト名義はイズミヤ・シゲル&ストリート・ファイティングメン。

私の放浪音楽史 Vol.15 THE STRANGLERS『LIVE (X-CERTS)』

イメージ
1979年United Artistsよりリリースのライブ・アルバム。 このストラングラーズのライブ・アルバムが一番最初に聴いたパンク・アルバムまたは気に入ったパンク・アルバムだったと思う。右上のジャケ写は発売時のイギリス盤と同じ後のCD盤のものだが、日本では1979年2月の来日に合わせて、黒地に大きく赤いバンドのロゴと鼠のシルエットが黄色く描かれたジャケットに変更し、さらに1stアルバムの英初回盤に付いていたシングル収録曲の「Choosey Susie」と3rdアルバムの英初回盤に付いていたシングル収録曲の「Mean To Me」の2曲をカップリングした7インチ・シングルを付属した来日記念盤『X-Certs(Xサーツ)』として本国に先駆けて先行リリースされた。たぶん発売されてすぐに友人に借りて聴いたと思う。 シンプルな構成で迫力ある日本盤ジャケットにも魅かれたが、冒頭1曲目「(Get A)Grip(On Yourself)」が始まり、気に入ったのは硬質なベースの音色と印象的なキーボートのアルペジオの旋律、それに畳掛けるように歌うヒューのヴォーカルだった。他の楽曲「Hanging Around」や「I Feel Like A Wog」、「Straighten Out」、「5 Minutes」、「Go Buddy Go」なんかでもソリッドでシンプル、それでいてパワーのある魅力を感じた。ヒューが弾くテレキャスターはナチュラルなディストーションの音色じゃなくジャリジャリと鋭く歪んでいて、メロディアスなギター・ソロもない、コードをかきむしるか単音でフレーズを奏でる楽器のひとつ、という印象で新鮮だった。 それに歌の内容も“悪魔が~”とか“暗闇で血塗られた惨劇~”とか、そういう内容じゃなくて、ロックンロールを楽しむっていうのが基本にはあるんだろうけど、 “ちょっと考えてみろよ”、“世間じゃそう言われてるけどほんとにお前はそれでいいのか?” というスタンスや時事的な話題も盛り込んだ歌詞にも興味をもった。まぁストラングラーズの場合「Death And Night And Blood(Yukio)」のような少し?な曲もあるけど。 オリジナル・アナログ盤は11曲入りで1977年ラウンドハウスと1978年バターシー・パークでのライヴを収録。ジャケットは1978年9月のバターシー・パークで...

私の放浪音楽史 Vol.14 OZZY OSBOURNE『BLIZZARD OF OZZ』

イメージ
1980年Jetよりリリースのアルバム。 ブラック・サバスが1978年にリリースしたアルバム『ネヴァー・セイ・ダイ!』を当時聴いて、アメリカナイズされた内容に、悪くはないが “なんか違うんだよな~”と違和感を感じたものだが、この後サバスを脱退(というかクビ)したオジーは自身のバンドを結成。クワイエット・ライオットにいたランディ・ローズがギター、レインボーにいたボブ・デイズリーがベース、ドラムスにユーライア・ヒープにいたリー・カースレイクというメンバーにより制作されたファースト・アルバム。邦題は『血塗られた伝説』というタイトルだった。キーボードにレインボーにいたドン・エイリーが参加している。 アメリカ人のランディと組んだ楽曲制作は良い意味でのブリティッシュとアメリカンをミックスしたものとなり、聴き易くメロディアスでありながらヘヴィでダークな世界を表現することに成功しており、オジー・オズボーン完全復活を印象付ける仕上がりとなった。イギリスでは1980年にリリースされたが日本では確か少し遅れて1981年の初めに国内盤が出たと思う。 ランディ作のクラシカルなインスト小品「Dee」も含め全9曲、捨て曲なしの名盤。ハード・ドライヴィンな曲もいいが、リリカルな「Goodbye To Romance」、オカルティックなイメージの「Mr.Crowley」、ドラマティックな「Revelation (Mother Earth)」も聴きどころだ。このオジーのソロ・デビュー作の確かなギター・プレイによりランディは新しいギター・ヒーローとなった。 リアル・タイムで私がハード/ヘヴィのレコードを買っていたのはこのあたりまでで、オジーの2枚目も聴いたがあまり魅力を感じなくなっており、本格的にパンク/ニュー・ウェイヴへ興味が移行していった。

私の放浪音楽史 Vol.13 IRON MAIDEN『IRON MAIDEN』

イメージ
1980年EMIよりリリースのアルバム。 1979年頃に勃興したブリティッシュ・ハード・ロックの新しい動き、"NEW WAVE OF BRITISH HEAVY METAL" ムーブメント。レインボーなどの旧来のハード・ロック・グループがアメリカナイズされ、ポップで聴き易くなっていったなか、硬質でタイト、スピーディ&ヘヴィでアグレッシブな演奏をする一群でストリート感もある佇まいも特徴だった。デフ・レパード、ガール、サクソンといったバンドが私のまわりでは聴かれていたが、なんといっても一番人気があったのはアイアン・メイデンだ。 エディ(発売当時はこういう名前とは知らなかった)が描かれた強烈なジャケット(右上のジャケ写は1998年にリリースされたリマスターCDのものでオリジナルとは異なる)、1曲目「Prowler」のギターリフに続くハードでタイトな演奏とスピーディな展開には確かに新しい息吹を感じた。長~いギターソロがなくメリハリのあるコンパクトなナンバーで一気に聴かせるアルバム内容。ベースのフレーズが効いているのも特徴だ。インスト「Transilvania」でスピードアップした後の静かな「Strange World」も聴かせるナンバー。 アイアン・メイデンはこのあと日本でリリースされた12インチEP『ライヴ+ワン』まで聴いた。

湯浅学監修・選『日本ロック&ポップス・アルバム名鑑1979-1989』

イメージ
ミュージック・マガジン社発行、レコード・コレクターズ増刊、2014年2月14日発売。 『1966-1978』が出版された時、続巻は2013年11月の発売予定だったから大きくずれ込んだが、 『日本ロック&ポップス・アルバム名鑑1979-1989』が発売された。湯浅学監修・選による1,005枚のアルバムを発売順に掲載。発売日の2月14日は関東地方で大雪。これまで経験したことの無いくらいの積雪で本屋へ行くのに難儀した。ようやく手に入れたのは2月20日、この辺りの年代はほぼリアルタイムなのでどんな内容か楽しみにしていた。 前巻の序文で湯浅学が“解説枠の大小はその盤の重要度ではない”と記しているとはいえ、ルースターズの紹介された6枚のアルバムのうち、どれか大ワクで紹介してほしかったなぁ。選盤についてはいろいろ意見はあろうかと思うが、個人的には11年間でこれだけのジャンル/量は納得して良いと思う。今回もジャケットは全てカラーで掲載されており見ていて飽きない。中にはオリジナルが手に入らず再発CDで掲載されているものもある。山口フジオ『PRIVATE CASSETTE』なんか誰か持ってそうだけど。 1979年頃からの日本パンク/ニュー・ウェイヴの勃興はアルバムではなくシングルやソノシートのみのリリースも多いから今一つ解り難いかも。なので巻末の“発掘盤”ではミスター・カイト『ライヴ・イノセント』が紹介されているのがうれしい。同じ頃出たミラーズ『リアル・ステイト』も紹介してほしかった。 だけどクレイジーライダー…が大ワク使って“日本のラモーンズ”って書かれてもねぇ。

私の放浪音楽史 Vol.12 GILLAN『GLORY ROAD』

イメージ
1980年ヴァージンよりリリースのアルバム。 ディープ・パープルのメンバーその後を追いかけるということでは、リッチーのレインボーと共にイアン・ギランの動向を追いかけていた(デヴィッド・カヴァーデイルのホワイトスネイクも聴いていたが…)。DP脱退後の2枚目のアルバムとなるイアン・ギラン・バンド名義の『Clear Air Turbulence(邦題:鋼鉄のロック魂)』を友人に借りて気に入り、『Scarabus(邦題:魔性の勇者)』や『Live At The Budokan』も借りて聴いていた。1枚目の『Child In Time』は輸入盤で入手した覚えがある。このクロスオーヴァー/フュージョン・ライクなサウンドとイアン・ギランのハードロック・シャウトのミックスは私のまわりでも受け入れられて人気はあった。だが日本以外の国では当時このアルバム群は不評だったらしく、結果キーボードのコリン・タウンズ以外のメンバーを一新、ベースにジョン・マッコイ(日本のみで発売された『GILLAN』に参加していた)、ギタリストにバーニー・トーメ、ドラムにミック・アンダーウッドという布陣でバンド表記は“GILLAN”として活動を開始する。 その第一弾リリースがアルバム『ミスター・ユニヴァース』で、1979年にリリースされたが、 この頃には私のまわりではパンク/ニュー・ウェイヴへ嗜好の移行が始まっており、 “オールド・ウェイヴ ”なハード・ロックのアルバムを購入する友人はもはや少なくなっていた。なので『ミスター・ユニヴァース』は自分で購入。ここで初めてバーニー・トーメのギターを聴いたのだが、A面の1曲目「Vengence」~2曲目「Mr.Universe」のイコライズされたスモーキーともいえるトーンとアームを多用したアグレッシブなプレイが気に入り、またルックスもかっこよく私的には一発でファンになってしまった(『ミスター・ユニヴァース』の日本盤はジャケットと収録曲が本国イギリス盤とは違っていた)。 1980年にリリースされたGILLANとしては2枚目のアルバム『グローリー・ロード』はバンドの結束も強まり、折からの"NEW WAVE OF BRITISH HEAVY METAL" ムーブメントの追い風もあり、全英チャート3位となるヒット。英盤の初回盤はフリーアルバムが付属していたが、...

私の放浪音楽史 Vol.11 THIN LIZZY『LIVE AND DANGEROUS』

イメージ
1978年ヴァーティゴよりリリースのライヴ・アルバム。 アナログではダブルアルバムで輸入盤を友人から借りて90分カセット・テープに録音し繰り返し聴いていた耳馴染みのある作品。ハード・ロックやメタルのレコードを手放した時でも長距離の車で行く旅行なんかにはニュー・オーダーやスタイル・カウンシルなんかのカセットと一緒に よくこのカセットを持って行ったものだ。長距離旅行には収録時間の長さも必要だし。 ロックン・ロールがルーツ/ベースにあり、ブライアン・ロバートソンとスコット・ゴーハムの流麗なツイン・ギター、洗練と激しさと独特のワイルドさも兼ね備えた演奏は魅力あるものだ。それはボブ・シーガーのカヴァー「Rosalie」にも表れていると思う。美しいツインリードで始まる「South Bound」、タイトな演奏の「Dancing In The Moonlight」(グラハム・パーカーのアルバム『ハウリン・ウィンド』や『ヒート・トリートメント』 に参加していたジョン・アールがサックスで参加)、美しいバラード「Still In Love With You」など前半はメロディアスな曲が並ぶ。 オリジナル・アナログではC面の1曲目になる「Cowboy Song」からメドレーのようになだれ込む「The Boys Are Back In Town」がこのアルバムのハイライトだ。 個人的にはここまでの流れが好み。この後はハードで盛り上がる曲が目白押し。「Baby Drives Me Crazy」ではヒューイ・ルイスがハーモニカで参加している。

私の放浪音楽史 Vol.10 VAN HALEN『VAN HALEN』

イメージ
1978年ワーナーよりリリースのアルバム。 1978年と言えば欧米ではパンク・ロックの嵐が1977年に吹き荒れた後で、セックス・ピストルズはもはや空中分解していた。そんな事は露知らず、田舎のガキはまだリッチー・ブラックモアに続くハード・ロック・ギター・ヒーローを求めていた。当時フレッシュなバンドが聴きたい!と感じていたところにアメリカからの強烈な一撃となったのがヴァン・ヘイレンの登場だった。 1曲目のコード感が気持ち良い「Runnin' With The Devil」に続く「Eruption(邦題:暗闇の爆撃)」を聴いたときの衝撃はまさに爆撃級に感じたものだ。速い超絶フレーズの連続、アーム・プレイもかっこよく、ライトハンドのフレーズは奇妙に響き “これ、どーやって弾いてるんだろう!?” とただただ驚くばかり。この2分に満たないインストゥルメンタル1曲が通常のアルバム2枚分くらいに匹敵するくらいの重みというか充実感というか満足度だった。 続く「You Really Got Me」はガキゴキしたリフと合いの手に入るギター・フレーズ、ロックン・ロールなギター・ソロもキマっている名カヴァー。だが当時キンクスのオリジナルはまだ聴いた事がなかった。4曲目「Ain't Talkin' 'Bout Love」はイントロのフレーズがかっこいい。ここまで完璧な流れ。 この後もほとんどが3分台の曲が続きコンパクトにまとまっていて、甘く緩いバラードなんか無くて、ジョン・ブリムのブルース曲「Ice Cream Man」の陽気なカヴァーもあり、フレッシュかつガツンと効いたアルバムだった。 ただ個人的にはヴァン・ヘイレンで気に入って聴いたのはこのファースト・アルバムのみ。

追悼・佐久間正英 四人囃子「DEEP」

イメージ
佐久間正英1月16日永眠。1月20日に公表された。 その日、家に帰ってハードディスク・レコーダーに録画してあったNHKのドキュメンタリー「ハロー・グッバイの日々~音楽プロデューサー佐久間正英の挑戦~」をもう一度見た。 この番組を見た時、あまりにも衰弱している姿が痛々しかったのだが、その体調にもかかわらず長時間レコーディング作業をする姿勢に感銘を受けた。「Last Days」と題された佐久間の作ったラスト・ソング。ボーカルは元JUDY AND MARYのTAKUYA。ドラムは屋敷豪太。 佐久間のベース、ギター、ピアノのダビング。体調的にはとてもつらい作業でソファに横になったり、点滴してれば楽なんだが…と話していたり。その姿に最後の作品を残すという執念を感じるのでは無く、ディティールにこだわり、スタジオ職人的に淡々と作業し、辛くても満足出来るまでやめられない、という印象を受けた。「Last Days」はもうじきリリースされるコンピレーション盤『SAKUMA DROPS』に収録されるそうだ。 それから1989年に再結成というか活動を再開した四人囃子のライヴ・ビデオ『FULLHOUSE MATINEE』を観た。当時30歳半ばの佐久間が音楽的に牽引したこの時の四人囃子は、森園、佐藤満に続く3人目のヴォーカル&ギタリスト、といった趣きで、前任2人とは全く違う魅力があるのだが、線の細いヴォーカルはともかく、ギターの腕前はなかなかのものだ。このビデオでもストラトキャスターのアームを壊れんばかりに操るエキサイティングなプレイが見られる。 ビデオでは11~13曲目になる「眠い月」~「一千の夜 (1000 Nights)」~「DEEP」の流れは89年型四人囃子のライヴのハイライトといえるものだ。 なかでもこの「DEEP」はダンサブルでマシナリーなファンクのリズムと小気味よくキレたカッティングのギター、佐久間、岡井、坂下の3人に加えてホッピー神山やベースの大堀薫、サックスの藤沢由裕等のゲストによる豪華なサウンドではあるものの、ヴォーカルを含めて体感的に迫ってこない冷徹ファンクの不思議な魅力。佐久間は無表情に冷めた視線を観客に投げかける奇妙な表情で熱の入ったギターを聴かせてくれる。 このビデオに映る30代の佐久間と昨年のドキュメンタリーで見た61歳の佐久間正英。年を重ねた風貌の違いはあたりま...

私の放浪音楽史 Vol.9 KING CRIMSON『IN THE COURT OF THE CRIMSON KING』

イメージ
1969年アイランド/アトランティックよりリリースのアルバム。 やはりジャケットが強烈だった。 このアルバムを手掛けた後、早逝してしまう当時無名の画家バリー・ゴッドバーがアルバムの音を聴いたイメージをもとに描いたというジャケットは、これまで聴いてきたプログレの謎めいたジャケットとも、一部ハード・ロックの悪魔的なジャケットとも違う、只者ではない、この中には一体何が記録されているのだろうか、と暴力的とも思える強引な磁場を発生させているジャケットである。アナログ・レコードのジャケット30cm×30cmの大きさで見れば、なおその特異性がわかるだろう。まるで“クリムゾン・キング”と呼ばれた宮殿のように豊かに起伏に富み、その色は深紅で描かれている。 レコードを取り出し、針を落とすと暫しの静寂の後にあらわれる凶暴な音の塊に驚愕し「21st Century Schizoid Man」の世界へ引き摺り込まれていく。 “Cat's foot iron crow…"冷徹な過去と今(1969年)の事象が生み出す未来の男の姿を、エフェクトで歪んだ声が叫ぶ。重く鋼のように硬質でなおかつ、鞭のようにしなる柔軟性を持った圧倒的な演奏技術によって表現されたこの1曲はまさに先進的と呼ぶに相応しかった。2001年に車のテレビCMでこの曲が使われたときは驚いたものだ。 静けさの中にハーモニーが引き立つ「I Talk To The Wind」、 ドラマテックな「Epitaph」には、  Knowledge is a deadly friend  When no one sets the rules  The fate of all mankind I see  Is in the hands of fools と歌われた歌詞があるが、2014年の今でも十分有効だ。 音響的で長く複雑な曲だけど語りかけるような「Moon Child」、再びドラマティックで壮大なラストの「The Court of The Crimson King」(シングルカットされた)と、どの曲も聴き逃せないトータルに完成されたアルバムである。但しキャッチーな英語のフレーズも耳馴染みの良いギターソロもノリ易いビートもないこのアルバムは、中学生にとっては哲学的とも思える内容だった。 次作の『In the Wake of Pos...